ジャズの時代以後
日本でも、ジャズの歴史は古い。戦前期にもジャズの時代があった。その昔は、おもにアメリカの大衆音楽をすべて「ジャズ」と呼んでいた時代があった。ヨーロッパ起源の音楽でも、ヒット曲を歌う場合も、「ジャズ、ジャズソング、ジャズ小唄」などと呼んでいた時代がある。例えば、こういう本がある。
『モダンジャズ小唄集』 東京新民謡普及会、1929(昭和4)年
あるいは、戦前期のジャズを集めた「ニッポンジャズ水滸伝」といったコンピレーションレコードがある。
戦後のジャズブームは、終戦とともに始まった。ラジオはNHKと進駐軍放送しかない。NHKを支配しているのは進駐軍だ。戦争が終わると、ラジオから突然ジャズが大量に流れ出した。
進駐軍放送の歴史をちょっと振り返る。
1942年 アメリカ軍直営のラジオ局AFRS(The American Forces Radio Service)開局。
1945年7月 アメリカ軍が沖縄を占領し、ARRS開局
1945年9月 AFRSを東京で開局。コールサインは、東京WVTR、大阪WVTQ、札幌WLKDなど全国に広がる。アメリカ音楽を聞きたい、歌いたい演奏したいという東京の若者にとって「WVTR」がアメリカだった。進駐軍時代をよく知る芸能人が懐かしげにWVTRの思い出話をしているのをラジオやテレビで何度も聞いた。AFRSは、日本ではFEN(Far East Network)で、私はこちらの方が親しみのある局名なのだが、東京在住日本人が、いつごろからこの局の呼称をWVTRからFENに変えたのかはわからないが、たぶん、1950年代のいつかだろう。
1977年 FENはAFN(American Forces Network)-Pacificと改称した。
戦後日本のジャズブームは、終戦から1950年代末あたりまで続いた。ラジオからジャズが流れ、楽器ができる若者は米軍キャンプで仕事をした。アメリカから軍の慰問団として、有名ミュージシャンが来日し、日本人の前でも演奏した。米軍キャンプで演奏していた日本人は、その後もプロのミュージシャンになった者もいるが、渡辺プロダクションやホリプロのように、芸能プロダクションを設立する者もいた。大学生のバンドは、卒業後放送局や雑誌社などマスコミに就職したり、ライターなどになった。
1960年代後半にラジオ少年になった私が聞いていた番組に、元ジャズ青年がかかわっていた。ディレクターだったり、放送作家だったりDJなどとして、番組に関わった。ジャズの番組はそれほど多くないが、バラエティーのテーマ曲やコマーシャルにジャズがよく登場した。映画音楽にジャズが使われることが多くなり、ラジオでは映画音楽としてジャズが流れていた。のちに、「日本映画における異文化衝突」をテーマに日活映画をまとめて見たが、日活アクション映画のバックにジャズが流れているにも確認した。裕次郎がジャズ・ドラマーになる「嵐を呼ぶ男」(1957)でわかるように、当時の「ジャズ」は若者にとって、「カッコいい」音楽だったのだ。ジャズと映画を結びつけるのが、新しかった。
前回紹介した、ジミー・スミスの「ザ・キャット」やラムゼイ・ルイスの「ジ・イン・クラウド」などは番組テーマ曲だったかもしれない。あの頃いろいろな音楽を聞き、そのうちのいくつかは記憶に残り、のちの音楽趣向に大きな影響を与えた。例えば、こういう音楽だ。今は「超有名曲」と言えるが、ガキにはそんなことはわかっていない。ミュージシャンの知名度も知らない。ただ、音楽を聞いて、「すごいぞ、これ!」と感じただけだ。
“Mornin’” (1958) Art Blakey and Jazz Messengers(NHK「美の壺」のテーマ曲)
「死刑台のエレベーター」(1958) Miles Davis
「危険な関係のブルース」(1959) Art Blakey and Jazz Messengers
“Take Five”(1959) Dave Brubeck Quartet
“Cool Struttin’ “ (1958) Sonny Clark
“Five Spot After Dark (1959) Curtis Fuller
“The Sidewinder”(1964) Lee Morgan
思い出せば、マイルス、スタン・ゲッツ、コルトレーン、ヘレン・メリルなど何人もの名が浮かぶが、まだジャズファンでもなく、LPを一枚も持っていないし、ジャズ喫茶にもまだ行ったことがない中学生のガキが、こういう音楽に接して、「いいなあ」と聞きほれた。曲名や演奏者名を覚えたのは、ラジオのジャズ番組のおかげだ。