1420話 音楽雑話 第2回

 ジャズの時代以後

 

 日本でも、ジャズの歴史は古い。戦前期にもジャズの時代があった。その昔は、おもにアメリカの大衆音楽をすべて「ジャズ」と呼んでいた時代があった。ヨーロッパ起源の音楽でも、ヒット曲を歌う場合も、「ジャズ、ジャズソング、ジャズ小唄」などと呼んでいた時代がある。例えば、こういう本がある。

 『モダンジャズ小唄集』 東京新民謡普及会、1929(昭和4)年

 あるいは、戦前期のジャズを集めた「ニッポンジャズ水滸伝」といったコンピレーションレコードがある。

 戦後のジャズブームは、終戦とともに始まった。ラジオはNHK進駐軍放送しかない。NHKを支配しているのは進駐軍だ。戦争が終わると、ラジオから突然ジャズが大量に流れ出した。

 進駐軍放送の歴史をちょっと振り返る。

 1942年 アメリカ軍直営のラジオ局AFRS(The American Forces Radio Service)開局。

 1945年7月 アメリカ軍が沖縄を占領し、ARRS開局

 1945年9月 AFRSを東京で開局。コールサインは、東京WVTR、大阪WVTQ、札幌WLKDなど全国に広がる。アメリカ音楽を聞きたい、歌いたい演奏したいという東京の若者にとって「WVTR」がアメリカだった。進駐軍時代をよく知る芸能人が懐かしげにWVTRの思い出話をしているのをラジオやテレビで何度も聞いた。AFRSは、日本ではFEN(Far East Network)で、私はこちらの方が親しみのある局名なのだが、東京在住日本人が、いつごろからこの局の呼称をWVTRからFENに変えたのかはわからないが、たぶん、1950年代のいつかだろう。

 1977年 FENAFN(American Forces Network)-Pacificと改称した。

 戦後日本のジャズブームは、終戦から1950年代末あたりまで続いた。ラジオからジャズが流れ、楽器ができる若者は米軍キャンプで仕事をした。アメリカから軍の慰問団として、有名ミュージシャンが来日し、日本人の前でも演奏した。米軍キャンプで演奏していた日本人は、その後もプロのミュージシャンになった者もいるが、渡辺プロダクションホリプロのように、芸能プロダクションを設立する者もいた。大学生のバンドは、卒業後放送局や雑誌社などマスコミに就職したり、ライターなどになった。

 1960年代後半にラジオ少年になった私が聞いていた番組に、元ジャズ青年がかかわっていた。ディレクターだったり、放送作家だったりDJなどとして、番組に関わった。ジャズの番組はそれほど多くないが、バラエティーのテーマ曲やコマーシャルにジャズがよく登場した。映画音楽にジャズが使われることが多くなり、ラジオでは映画音楽としてジャズが流れていた。のちに、「日本映画における異文化衝突」をテーマに日活映画をまとめて見たが、日活アクション映画のバックにジャズが流れているにも確認した。裕次郎がジャズ・ドラマーになる「嵐を呼ぶ男」(1957)でわかるように、当時の「ジャズ」は若者にとって、「カッコいい」音楽だったのだ。ジャズと映画を結びつけるのが、新しかった。

 前回紹介した、ジミー・スミスの「ザ・キャット」やラムゼイ・ルイスの「ジ・イン・クラウド」などは番組テーマ曲だったかもしれない。あの頃いろいろな音楽を聞き、そのうちのいくつかは記憶に残り、のちの音楽趣向に大きな影響を与えた。例えば、こういう音楽だ。今は「超有名曲」と言えるが、ガキにはそんなことはわかっていない。ミュージシャンの知名度も知らない。ただ、音楽を聞いて、「すごいぞ、これ!」と感じただけだ。

 “Mornin’” (1958)  Art Blakey and Jazz MessengersNHK美の壺」のテーマ曲)

 「死刑台のエレベーター」(1958)  Miles Davis

 「危険な関係のブルース」(1959)  Art Blakey and Jazz Messengers

 “Take Five”(1959) Dave Brubeck Quartet

 “Cool Struttin’ “ (1958)  Sonny Clark

 “Five Spot After Dark (1959)  Curtis Fuller

 “The Sidewinder”(1964)  Lee Morgan

 思い出せば、マイルス、スタン・ゲッツコルトレーンヘレン・メリルなど何人もの名が浮かぶが、まだジャズファンでもなく、LPを一枚も持っていないし、ジャズ喫茶にもまだ行ったことがない中学生のガキが、こういう音楽に接して、「いいなあ」と聞きほれた。曲名や演奏者名を覚えたのは、ラジオのジャズ番組のおかげだ。