1422話 音楽雑話 第4回

 謡曲はいいなあ その1

 

 タイ人と音楽について調べ始めたのは1990年代のことだった。資料は、ない。タイ人の音楽ライターと知り合ったので、タイ大衆音楽史といった資料はあるのかとたずねたら、「ない」ということだった。日本で言えば、雑誌「平凡」や「明星」のような昔の芸能雑誌に、当時の人気芸能人の記事はあるが、まともな大衆音楽史の本はないという。「タイ人は、そんなことに興味はないのよ」と、音楽ライターは言った。音楽は消費し、楽しむもので、研究するものだとは学者やライターは考えていないという事らしい。学者は天下国家に関係するものを研究するのが本流という考えだ。

 もし音楽評論家や音楽ライターが「タイ音楽の本」を書くなら、歌手や作曲家やプロデューサーやラジオDJへのインタビューと同時に、音楽的分析やコンサートやレコードの批評を載せれば完成だろうが、私は音楽を送り出す側の事情にはあまり関心がなかった。私はタイ音楽の本を書きたかったわけではなく、タイ人と音楽の話を書きたかったのだ。音楽の専門家は書かない話、音楽を聞く側の話を書きたかったが、まずはタイ音楽の基礎知識を仕入れておきたかった。

 私はタイ語の文献が読めるわけではないが、資料があるなら誰かに要旨を翻訳してもらうこともできるのだが、使える資料はないらしい。英語の資料は、のちには何冊か出版されたが、その当時は見つからなかった。何から手をつけたらいいのかわからないから、しかたなく、日本大衆音楽史に手をつけた。幸いにも、こういう資料はいくらでもあり、すでに昔から何冊も読んでいる。

 これは実に勉強になった。レコードといえば、音楽を録音したものと思いがちだが、レコードは「記録」だから、保存しておきたい講演などの音声を録音したものが最初だというのは、タイも日本も同じだった。そして、昔のタイにも日本にもレコード会社はないから、録音は現地でも、レコード制作はヨーロッパだったのだ。

 山田耕筰は、日本語のアクセントに合わせて作曲しなければならないと考えた。例えば、「赤とんぼ」という歌は、「垢トンボ」にならないように、「あ」が高く、「か」が低くなるように作曲している。声調言語であるタイ語の場合はもっと深刻で、赤と垢以上に、すべての音には高低など違いが決められているから、声調を無視して作曲すると、意味がつかめなくなる。タイでも日本でも、入ってきた西洋音楽にどう対処したかという体験は似たようなものだとわかってきた。だから、「西洋音楽とタイ人」という研究テーマは、「西洋文化と接したアジア人」と考えると、タイと日本の違いはない。

 タイにいるときは、タイの音楽をラジオやテープで徹底的に聞いていたが、日本に帰ると、日本の古い歌を聞きたくなった。タイの歌謡曲は、日本の歌謡曲の影響を強く受けているらしいということがわかってきたが、私は歌謡曲をまともに聞いたことがなかった。1950~60年代に少年時代を過ごしたから、テレビからもラジオからも、街でも駅でも、様々なジャンルの音楽が流れていた。クラッシクの英才教育を受けている気の毒な少年少女やその教師たちは、クラッシク以外の下品な音楽を聞く耳を持っていなかったが、それ以外の普通の民は、音楽の好みに関わらず、じつにいろいろな音楽を聞いていた。そして、歌謡曲自体が千変万化、ぬえのごとく姿を変えていく時代に私は生きていた。歌謡曲という怪物を、毎日感じて過ごしていたのが、50~60年代の日常生活だった。聞く気がなくても耳に入り、いつの間にか覚えてしまうという時代だが、積極的に歌謡曲を聞くことはなかった。

 タイの音楽史を調べようというこの機会に、日本の歌謡曲をじっくり聞いてみようと思った。当時はまだパソコンで音楽を聞くという時代ではない。昔のレコードを買い集める資金はない。それで思いついたのは、NHKの「ラジオ深夜便」の午前3時からの歌謡曲番組を聞くことだ。この番組で、それまでよく知らなかった戦前の歌謡曲を、ほぼ毎日たっぷり聞いた。