1423話 音楽雑話 第5回

 歌謡曲はいいなあ その2

 

 あの日のことはよく覚えている。バンコクで暮らしていたころの、ある日曜日のことだ。日曜日のラジオはどこの局にダイヤルを合わせても、坊主の説教が延々と流れていて、つまらない。昼飯を食いに出て、ちょっと散歩をして、帰宅。すでに汗びっしょりになっているから、シャワーを浴びて、涼んでいると、ラジオから突然、B.B.Kingの歌声が聞こえてきた。”Everyday I have the bluesだ。「いいなあ」と浸った。タイの歌手はおおむね、ふにゃふにゃと口先だけで歌っていることが多い。伝統的な発声法を訓練された一部の歌手を除くと、浅田美代子みたいなのが標準レベルだ。日常的にそういう音楽を聞いているから、B.B.Kingの太い声は体にしみる。

 ブルースの番組ではなかったようで、おしゃべりが続く番組に戻ったので、ダイヤルを回した。古臭い音楽を流している番組を探していると、まるでSPレコードのような音が聞こえてきた。音がくもっていて、雑音が多いのはSPだからではなく、録音が悪く、保存状態が悪いからだということは想像できる。

 その番組から、突然日本語の歌が流れてきた。女性歌手の古い歌だということはわかるが、聞いたことがない。曲名も歌手名もわからない。しっとりしたいい歌だ。1960年代のタイの歌謡曲に近い雰囲気がある。この歌の正体を知りたいので、歌詞を書きとった。帰国して調べると、歌詞のなかにタイトルが入っていたので、簡単に調べがついた。インターネットの時代ではないから、買い集めていた歌謡曲歌詞集や歌謡曲史といった資料でしらべたのだ。

 けだるいバンコクの午後に聞いた日本の歌は、音丸の「船頭可愛や」だった。1935年ということは、昭和10年の発売。作曲は古関裕而

 この歌をもう一度聞きたいと思っていたら、すぐに聞くことができた。「ラジオ深夜便」だった。

 船頭可愛や

 この深夜ラジオで、1930年代から60年代の歌謡曲をたっぷり聞いた。

 ここで少し解説をしておく。音楽がラジオで放送されたり、レコードとして発売されるようになると、「売るための音楽」が生まれた。世間によく知られるようになる音楽を、「流行歌」と呼んだものの、「まだ流行もしていない歌を流行歌と呼ぶのはいかがなものか」と文句を言ったのはNHK。そこで、「歌謡曲」と言う名が生まれた。歌謡曲の範疇の外にあるのは、日本の古典音楽・伝統音楽。ヨーロッパのクラッシック音楽のように、商品として作ったのではない音楽だ。外国の歌を外国人が外国語で歌っていれば歌謡曲に入れないが、そういう歌に日本語詞がついて日本人が歌うと歌謡曲になる。歌謡曲はデパートのお好み食堂のように、あるいはファミリーレストランのように、メニューにどんな音楽も受け入れる。民謡そのものは民謡でも、それを新しい歌にすれば、歌謡曲浪曲もジャズもハワイアンも、なんでも取り入れた「何でもあり」の音楽ジャンルだ。ムードコーラスの音楽的背景はラテン音楽かハワイアンだし、内山田洋とクールファイブドゥーワップ(doowop)である。1950年代のキューバ音楽を聞いていて、日本の歌謡曲かと思うイントロとメロディーが流れてきたことがある。もちろん、本家はあちらだ。日本人が外国の音楽を翻案して歌謡曲になり、それがアジア諸国に伝播していったのだ。

 60年代は歌謡曲の黄金時代であると同時に、演歌一色に塗り替えられる時代の始まりでもあった。センチメンタルを前面に出した日本調歌謡曲を、レコード会社は「演歌」と名付けて売りだして、これが売れた。歌謡曲の主流が演歌になっていき、つまらなくなった。どんな曲を聞いても同じ、全1曲という状態になった。歌謡曲のバイタリティーや貪欲さがなくなり、同じような歌を作っていれば商売になる時代だった。

 1930年代から60年代の、音楽界が演歌一色になる前の歌謡曲を聞き続けて、いいなとあらためて思った。タイの歌謡曲と思われるジャンルの歌を聴いていると、いくつかのグループに分かれていることがわかってきた。日本では、ペギー葉山由紀さおりの歌い方と、都はるみ藤圭子の歌い方が違うように、タイでもそういう違いがある。わかりやすく言えば、音楽学校で歌唱法を学んだ歌い方と、こぶしを効かせた伝統的な歌い方だ。聞いているだけでわかるこういう違いは、タイ音楽のジャンルの違いでもあり、音楽学校卒業生が歌うような歌のジャンルをルーク・クルン(都会の歌)といい、こぶしが効いた歌い方のジャンルをルーク・トゥン(田舎の歌)という。東北部の伝統音楽のジャンルもある。そして、アメリカや台湾や日本やインドの影響を受けて歌謡曲が増殖してきたとわかってきた。タイ歌謡曲研究のために日本の歌謡曲を研究したのは有効な方法だったとわかった。歌謡曲のなかで生きてきた1950年代生まれの日本人は、幸せにも、こういう分析ができる世代だったのだ。