なんだか、遠い昔のようなことと、ちょっと前のこと その1
久しぶりに新刊が出た。『プラハ巡覧記 風がハープを奏でるように』(産業編集センター)だ。この本が出るまでの長いいきさつと、短いいきさつを、出版業界になじみのない人にもわかるように書いてみる。
2019年12月25日、見知らぬ人からメールが届いた。「蔵前仁一さんに、このメールアドレスを教えていただきました」というメールの意図は、アジア雑語林の連載記事を書籍化したいというものだった。蔵前さんも著者のひとりである産業編集センターの「わたしの旅ブックス」のシリーズに、私の文章を加えたいという企画だった。
考えてみれば、講談社文庫の旅シリーズも蔵前さんが切り開いた道を、売れないライターたちが進んでいったという過去があり、またしても蔵前さんのおかげである。
まずは、アジア雑語林というこのブログ誕生のいきさつを書いてみよう。
今回で1434話ということは、1回分の原稿量が1500~2000字程度なので、平均1800字とすれば、総文字数は285万1200字、400字詰め原稿用紙にして6453枚。300ページの単行本1冊の原稿量を500枚とすれば、13冊分の原稿量ということになる。多いようだが、椎名誠の1年分ほどだから、売れっ子作家にとっては、実はたいした分量ではない。
中国書籍の専門書店内山書店の従業員だった大野信一さんが、アジア専門書店アジア文庫を神保町すずらん通りに開店したのは1984年だった。2年後の86年に、仕入れた本を紹介する「新刊案内~アジア文庫からの誘惑書」という小冊子の発行を始めた。これは単なるリストだから、知らない著者の内容がよくわからない本だと、買う気になれない。これでは、遠方に住んでいる人が注文するには不親切だと思った私は、「読書ガイドやアジアにまつわる雑談を載せませんか」と提案した。その当時、私はまだ喫煙者だったから、「プロのライターはタダでは原稿は書かないから、ゴールデンバット1箱と交換ということでいかがでしょうか?」と提案した。タバコを1箱吸う間には、原稿が書けると思ったからだ。こうして、1988年12月から、「活字中毒患者のアジア旅行」というコラムが始まった。「いくら何でも、ゴールデンバット(当時90円)の原稿料では申し訳ないので、もう少しお支払いします」ということだったので、そのご厚意に甘え、原稿料は封筒に入れて店で保管し、私が本を買うときの足しにするということにした。こうして、アジア文庫のカネは、アジア文庫に戻すというシステムが完成した。
「活字中毒患者のアジア旅行」の原稿は、原稿用紙に鉛筆で書き、郵送していた。その後、ワープロ専用機を買ったので、原稿は数回分フロッピーディスクに入れて、郵送していた。2000年にアジア文庫ホームページ完成にともない、私のコラムもデジタル化することになり、タイトルを「アジア雑語林」と変えて、週に1回程度更新していた。はっきりした記憶はないが、2002年ごろだっただろうか、私はついにパソコンを買った。当時、雑誌「旅」(JTB)で海外旅行史の連載をすることになり、本や映画やテレビ番組などに関する膨大な情報に当たらなければいけなくなり、いたしかたなくパソコンを買ったものの、原稿はワープロ専用機で書いていた。アジア文庫へもあいかわらずフロッピーディスクを送っていたが、店主の手間を考えたら、パソコンで原稿を書いたほうがいい。「パソコンで書いてメールで送るのは簡単ですよ」という店主の指導で、以後、どの原稿もパソコンで書くようになった。コピー&ペーストとか右クリックといったパソコンの技術の基礎は、大野さんと蔵前さんに教えてもらった。
2009年10月末に、神田古本まつりに出かけた帰り、アジア文庫に立ち寄った。客の姿がないのをいいことに、しばらく雑談をした。店主は、認知症になった母親の介護の苦労と共に、気になることをしゃべった。
「最近、体調が悪くて、駅から店まで歩いてくるだけで、疲れてしまって・・・」と言った。私は数年前に心筋梗塞をやったので、「まだ還暦前だけど、お互い体にガタが来ているのかな」と言って別れた。
11月に入って、メールが来た。「胃の具合が悪いので病院に行って検査を受けました。胃潰瘍など疑われたのですが、しかし、よくわからないというので、引き続き検査をしつつ仕事をしています」。