1439話 『プラハ巡覧記 風がハープを奏でるように』出版記念号 

 なんだか、遠い昔のようなことと、ちょっと前のこと その6

 

 取材ノートを書いていると、旅のあれこれが整理されて、どのテーマを文章にするかが次第にわかってくる。ノートに書いたことに肉付けすればいいから、帰国後、この取材ノートを読み返すことはあまりない。わずかに、固有名詞の確認くらいだ。

 文章を書くことに関してプロとアマチュアの違いは文章力ではない。文章がうまいアマチュアなどいくらでもいる。プロは、「このネタで1000字は無理だから、なにか工夫をしよう」とか、「このテーマなら1冊の本になる」というように、どれだけの材料があれば、どのくらいの長さの文章を書くことができるかがすぐにわかる人だ。プロは、書く材料を整理して、必要なら資料を読む。

 ブログの原稿は、一気に20話分くらい書く。原稿量にして3万6000字くらいだ。書きながら、私の知識の欠陥部分を補強するために、必要資料をアマゾンに次々と注文していく。資料を読みつつ下書きを修正・補強して、完成原稿に近づけていき、順次公開していく。逆に、資料をあれこれ読んでいるうちに、旅行中には思いつかなかったテーマが見つかることもある。すでに書いた原稿に手を入れつつ、先の文章を考え、書いていく。そして、また資料を注文する。

 だから、原稿は何度も読んでいるというのに、「ええ、なんだよこれ!」というような、誤記、誤字、脱字を見つけてしまう。公開してから気がついて、訂正するのは日常茶飯だ。著者の校正は、文章の内容を中心に考えるから、変換ミスや人名の誤記などにはあまり気がつかないものだ。

 通常、ブログに編集者はいないが、唯一、このブログの校正をやってくれるのが、天下のクラマエ師だ。

 私は、異常と言ってもいいほど、数字に弱い。「1985年の統計では2300だったものが、1995年になると23%増の・・・」という音声が耳に入ると、トタンに耳は聴力を失う。「聞く耳を持たない」のだ。7より上の九九はいまだに怪しい。「6・7」はすぐにわかるが、「7・6」になるといったん「6・7」に変換しないと回答が出ない。私は算数レベルを習得できていないのだが、それでも外国に行けば「暗算の天才」となって、つり銭の不正はすぐに指摘できる。何語であれ数は聞くだけでなく、読むほうもダメだ。タイにはタイ文字の数字があるが、何度覚えようとしても、すぐに忘れる。不思議なのは、アラビア文字の数字は今も書けるのに。

 このアジア雑語林でいえば、「1221話」のあと「1125話」と書いてしまったりする。単なる打ち間違いということもあれば、途中で新原稿を何本か挿入した結果、番号が重複してしまったという例などが実際にあり、蔵前さんがしばしば指摘してくれている。ありがたいことだ。間違いを教えてくれるのはありがたいことなのだが、そうとは受け取らない人もいる。

 自尊心があまりに強いからか、誰かに誤りを指摘されると、烈火のごとく怒る人がいる。ある大学教授が書いた本に、明らかな誤りがいくつかあったので、それを説明するメールを送ったら、怒りの返信があった。たかがライターごときが、博士である大学教授が書いたものにアレコレ言うなど笑止千万、100年早いとまでは書いていないが、まあ、そういう感情なのだろうなと推測できた。素直に誤りを認めたくないから、反論がまともではなく、居直りと屁理屈でしかない。そういう人がいるから、誤りなど告げずに、「唇寒し」という生き方をする人が多いのだろう。