1456話『食べ歩くインド』読書ノート 第4回

 

 

 この読書ノートは、取り上げるテーマが多岐にわたり、長短いろいろあるので、いままでのこのコラムのように、1回1話で構成することはできない。したがって、箇条書き風の構成になり、話の途中で「次回に続く」ということになるだろうが、まあ、その時はその時だ。内容をまとめずに、ページの順に書いておくことにする。今まで、カレー・ライターやインド・ライターが書いてこなかったことを書きそうな気がする。ということは、多くの人には関心のない話題なのだろうが、それはいつものことだ。

 

 『食べ歩くインド 北東編』

P27ハルワー・・中東起源の菓子でムガル帝国時代に広まったという。この菓子をインドで見ているのかどうか、記憶にない。この菓子の名前と姿を確認したのは、ケニアラム島だった。インドに詳しい旅行者と街の市場巡りをしていて、ペースト状のものを、「ああ、インドでも、これあるよ」と言った。その時に聞いた菓子の名をハルワーに近い名前だったと思う。しかし、「ああ。これか」とは思わなかった。私が見たインドの菓子は、ハエだらけで真っ黒になっている路上の菓子で、「ひどく甘い」という話も聞いていたので、「物は試しに」と口に運ぶことはなかった。

 それから20年ほどして、プラハの話でこの菓子が登場した。『旅行者の朝食』(米原万里文藝春秋、2002)の「トルコ蜜飴の版図」という章で、1960年前後のプラハに、日本語に翻訳すると「トルコの蜜飴」というものがあり、チェコでは人気の菓子だったという。米原は1959年にプラハの小学校に転校している。同級生たちが、この「トルコの蜜飴」がいかにおいしいかと語り合っていると、ロシア人の同級生イーラが、「ハルヴァの方が百倍美味しいわ」と言ったことがきっかけで、著者のハルヴァ研究が18ページにわたって続く。私が「インドの菓子」として認識していたものが、ロシアまで広がっていたということがわかる。モスクワから買ってきたハルヴァは、ニベアの缶のよう容器に入っていて、ロシアの文字(キリル文字)で「ハルヴァ」と書いてある。ハルワは南アジアからモロッコあたりまで広がり、中央アジアにも広がっていたせいで、ソビエト連邦イスラム系の国で製造されたのが、「ハルヴァの缶詰」かもしれない。

P27セモリナ・・セモリナとは粗挽きの粉のことで、特定の穀物の粉のことではない。一般的には「ドゥラム・セモリナ」のように、ドゥラム小麦(硬質小麦)を粗挽き(ヒキワリ)したものというときに使う。外国では、コメのセモリナとか、トウモロコシのセモリナという表現もあるようだ。この本には「セモリナ」という語がよく登場する。著者は巻末の用語解説で、「スージー・・・セモリナ。粗挽きの小麦粉」としている。これは著者が決めた表現なのか、インドの常識なのか。”World Food INDIA”(Lonely Planet,2006)の巻末食文化辞典を見ると、"suji-- semolina"となっている。う~む。普通小麦の粗挽きも「セモリナ」というのだろうか。インドのドゥラム小麦の生産量は少ない。

P30一八八〇年創業の・・・。外食史あるいは外食産業史というのは、非常に興味のあるテーマだが、フランス以外の国の事情が語られることは少ない。フランスの例というのは、フランス革命で職を失った王宮の料理人が、街で料理店を始めた。これがフランスでレストランが生まれるきっかけであるという話だ。フランスだけでなくヨーロッパに、フランス革命以前には飲食店はなかったという意味ではない。ワインを飲ませる店はあり、つまみを出しただろう。宿泊施設に飲食できる場もあっただろう。しかし、店にメニューがあり、客が料理をあれこれ注文し、ゆっくり食事ができる場という意味でのレストランは、フランス革命(18世紀末)以降誕生したというわけだ。

 外食産業という意味では、中国が他に抜きん出て早い。石毛直道さんの『食卓の文化史』(文藝春秋、1976)によれば、「中国は世界でいちばん早く、飲食店が発達した国である。前漢の中頃からすでに都市には飲食店がひしめいていた」という。前漢とは、紀元前206年~8年だから、驚きだ。日本では、江戸時代初めには屋台や食べ物の行商はあったが、まだ料理屋はない。そば屋が登場するのは17世紀中ごろらしい。それ以降しだいに、一膳飯屋などができ、料理茶屋へと広がっていく。

 石毛さんは、こうも書いている。「昔のインドやアラビアに料理店があったかどうか、調べたが、どうもよくわからない」という。菓子やパンを売る店はあっただろうが、料理屋と呼べる外食産業はなかったようだ。

 タイの外食産業史の話を、次回に。