1457話『食べ歩くインド』読書ノート 第5回

 

 

 外食産業史の続きだ。

 タイの外食産業史はこういうものだろうと想像している。

 19世紀末にしばらくタイに滞在したイギリス人は、「バンコクの路上で働いているのは中国人などで、タイ人の姿は見えない」と書いている(”The kingdom of the Yellow Robe” by Ernest Young、1898)。バンコクの中心部にいるタイ人は、公務員である王族くらいなもので、ほかのタイ人は米を作っている。1年中、家の周りには食べられる野草も魚もいくらでもあるので、食うに困らない。だから、表も裏も、カネがからむことはすべて中国移民がやっていた。税金も、中国人が徴税請負人として働いていた。

 そういうバンコクの外食産業は、中国人が中国人のためにやる仕事だった。中国からの移民は圧倒的に単身の男で、食事は屋台や飯屋に頼る方が手っ取り早かった。この点では、江戸も同じである。中国人は、中国人の好みにあう野菜を栽培し、魚を養殖し、果樹園を作り、屋台、飯屋、料理屋を始めた。今でも、屋台の多くは麺を扱ったものだとわかるように、飲食産業は中国人が始めたものだ。

 タイ料理は、どういう状態にあったのか。

 おそらく、日本最初のタイのガイドブックと思われる『暹羅案内』(暹羅室、1938)は、三井物産が作った本だ。暹羅は、古くは「しゃむろ」と読んだようだが、この本が出たときは、これで「シャム」と読んでいた。国名がシャムからタイに変わるのは、1939年である。

 この本の、旅行中の食事について書いている部分を要約すると、こうだ。バンコクに大衆食堂はあるがこれは中国料理だ。高級タイ料理店などないから、タイ料理を食べたければ、タイ人の家庭に招待してもらうしかないと書いている。そこそこの公務員家庭なら、自宅に料理人がいる。普段食べている料理を、なにもカネを払って外食することはない。友人知人親戚と会食するなら自宅で宴を開けばいいという発想だから、タイ料理店は生まれないのだ。

 高級タイ料理店ができるのは、1950年代から60年代だろうと、私は想像している。欧米人の初期観光ブームがあった。ベトナム戦争に関連してタイにやってくる外国人、例えば国際機関やマスコミやCIAやKGBなど各種各様の諜報機関に属する人たちや、経済人たちもタイにやって来た。おもに欧米人たちをもてなしたのが、「タイ古典舞踊を見ながらタイ料理の宴」というレストランシアター形式のタイ料理店だ。インドネシアインドネシア料理店の歴史を調べてもわかるのだが、民族料理店というのは、外国人観光客にエキゾチックな気分を味合わせるための「料理付き劇場」なのだ。自民族の料理店だから、昔からあるのが普通と考えるのは、中国や日本では正解なのだが、世界のほとんどの国では、高級民族料理店というのは、カネを持った外国人のためにできた「料理付き劇場」なのだ。そういう「劇場」で出される料理は、当然、外国人客の好みに合わせたものだから、家庭の料理とはだいぶ違う。香辛料を極力抑え、甘くして、飾りをつけて見栄えをよくしている。ウエイターやウエイトレスの服装も、エキゾチシズムを強調したものだ。店の内装も音楽も同様だ。

 そういえば、1990年代に外国人観光客に再び門戸を開いたばかりのラオスでも、ビエンチャンのほぼ唯一のラオス料理店も、この類の古典音楽演奏付きのレストランだった。この店のほかには、麺料理を売る屋台や食堂がわずかにあっただけだ。

 アジアの食文化や建築や服装や音楽を調べていると、自国あるいは自民族の文化を深く追求するようになるのは、欧米人のエキゾチシズムやオリエンタリズム起爆剤になっている歴史がよくわかる。リゾートホテルなどは、典型的な「エキゾチック劇場」である。

 タイ人がタイ人のために開店したタイ料理店が登場するのは、もしかして1980年代に入ってからかもしれない。それ以前にも料理店はあるが、基本的に「タイ料理も出す中国料理店」だった。店名に中国語名もついていた。今では信じられないだろうが、『地球の歩き方 タイ』の1989年版の、バンコクの食べ物屋情報はわずか1ページで、紹介している8軒のうち2軒が中国料理店、2軒がフードコート、1軒は学食とホテルの食堂、そしてタイスキの店だ。90年版ではレストラン紹介のページは一気に5ページに増えていて、タイ料理店が少し紹介されている。このころになると、タイ語のメニューしかないタイ料理店も増えてくる。

 タイの外食産業の例を長々と書いてきたが、ほかの東南アジアの国々でも、中国の食文化の影響を強く受けてきたベトナムを除けば、同じような事情だと思う。では、インドはどうなのか。その疑問を次回に書く。