1462話『食べ歩くインド』読書ノート 第10回

 

 

P159バフ・・1974年カトマンズ。レストランのメニューを見て、”Buff  Steak”という文字が見え、「“Beef”の綴りを間違えたのだろうが、とりあえず注文してみるか」。その肉はえらく硬く、硬いクジラ肉のような印象だった。それは、私が生涯で初めて口にした牛肉のカタマリであった(2度目に遭遇した牛肉のカタマリは、カルカッタイスラム料理店の牛肉の煮込みだった)。帰国して辞書で”buff”を調べ、「水牛」とあり、ネパール人の英語力を笑った私がバカだったと反省した。あの日から46年たった今、『食べ歩くインド』を読んで愕然とし、調べ直して、また「あーあ」とため息をついた。

 インターネットのOED(オックスフォード英語辞典)ほか各種英語辞典や手元にある書籍版の英語辞典を見ても、buffに水牛の意味など見つからないのだ。たぶん、こういうことだ。『リーダーズ英和辞典』(研究社、1984)で、buffを調べると、

 <牛・水牛の>淡黄褐色のもみ革。(中略)淡黄褐色。

 つまり、buffは革のことか、その色のことだ。食いしん坊の私は、「水牛」という文字を見て、早合点して、「バフとは、水牛のことだ」と理解して、46年たったというわけだ。小林さんによれば、バフは英語起源のネパール語だという。baffalo(水牛)をbuffと省略して、ネパールで定着したようだ。調べてみれば、結果的には、「バフは水牛」で正しかったのだが、英語ではなかった。なるほど。

 インドで活動する日本のNGO団体のホームページを読んでいたら、インド人の食生活の話で、「インド人は牛肉を食べません」とあって、「そんなの、ウソだね」とつぶやいた。まだそんなことを言っている自称「インドの専門家」がいることに驚く。イスラム教徒やキリスト教徒には、牛肉を食べる人がいるのだ。インドをヒンドゥー教徒だけの国だと思い込むと、こういうデマを書くことになる。インドのイスラム教徒とキリスト教徒を合わせても、全人口の15パーセントほどだが、人口13億を超えるインドでは、15パーセントでも2億人は超える。

 独立行政法人農畜産業振興機構の情報では、2018年の牛・水牛肉の生産量は430万トンで、輸出量185万トンだという。ということは、単純計算すると、245万トンが国内消費量だということになる。別の資料では、その6割ほどが水牛肉らしい。このサイトの情報はおもしろいので、インドや食文化に興味がある人はじっくり読んでみればいい。

P253マファー酒・・マファーの花で作った蒸留酒という説明だが、よくわからない。花の香りを移した酒というのはわかるが、花が酒の原料になるのか。マファーとはどういう植物か。小林さんは、こう説明している。「マファーの木(アカテツ科/英語名Indian Butter Tree)に咲いた無数の花」を集めて、発酵させ、蒸留したものだという。日本の酒飲みだってよく知らないこういう酒の解説もちゃんとしているのは、さすがだ。普通のライターなら、「なんかが原料の酒」程度でごまかす。細部をきちんと押さえているのが小林さんの本の特徴で、独自の調査も研究も探求もしないのが、あまたある「カレー本」だ。

 私はマファーという植物を知らないので、調べてみた。マファーは、MahuaあるいはMahuwaなどと綴り、学名はMadhuca longifolia。この花については、ウィキペディアの英語版も日本語版にも詳しい説明があるのだが、インドの花といえば、あの本を書棚から取り出すに限る。行方不明になることもなく、いつもの場所にある『インド花綴り』(西岡直樹、木犀社、1988)だ。私の好みでは、インド関連書ベスト5に入る名著だ。

 この本では、基礎情報をこう書いている。イリッペ(アカテツ科)Bassia latifolia。この学名は私が上に書いたMad・・・に変わっているのはわかっているから、西岡さんが「花の酒 イリッペ」の項で書いているのはマファーのことだ。イリッペという名についても調べたが、長くなるので割愛する。この花について、西岡さんは次のように書いている。

 「インドへ行って間もないころ、私はモフワの花を初めて食べた。森の道端で、白い肉厚のつりがね形の花を糸に綴っていた子供がくれたのだが、それは少々砂にまみれてはいたが独特の香りがあって、食べてみると蜜のように甘かった」

 旅の話をこういう文章で書けるようになりたいと思っても、「オレには無理だよなあ」とあきらめるしかない。そう思わせる見事な文章だ。こういう書き手がいるインドは幸運である。