コメの話・・当然ながら、随所にコメの話が出てくる。ひとまとめにして、「インドコメ図鑑」という6ページコラムにして、さまざまなコメの写真をつけてくれればわかりやすかったと思う。コメの名前だけ出てきても、それがどういうコメなのかまったくわからない。インドの丸いコメというのも気になって、本棚のコメコーナーで適当な本を探した。コメの本は何冊もあり、専門書もあるのだが、私のこれまでの関心分野を反映して、東南アジアのコメ事情の本ばかりで、インドのことがわからない。インドのコメを経済からではなく、食文化から眺めた本はないかと探したが、アマゾンでも適当な本が見つからない。
そんなことをしながら『食べ歩くインド 南西編』を読んでいると、79ページに「パーボイルドライス」という語が出てきた。このコメの存在は昔から知っているが、なぜあらかじめコメをゆでるのかという理由はここには書いていない。インドのコメを、パーボイルドライスから調べ始めるか。
パーボイルドライスとは、前もってゆでてあるコメということで(語義としては、「部分的にゆでたコメ」の意味)、籾がついたままゆで、乾燥した後精米するということは知っているが、なぜそういう事をするのかという理由は、すっかり忘れていている。インドのパーボイルドライスのことを教えてくれたのは、名著『料理の起源』(中尾佐助、NHKブックス、1972)だ。この本と石毛直道さんの著作と、「朝日百科 世界の食べもの」で、私の食文化の基礎知識が形成されている。『料理の起源』は、1970年代に何度も読んでいる。この機会に再読してみようと食文化の棚を点検したのだが、なぜか見つからない。こんな重要な本が見つからないわけはないのだが、現実に見つからないのだから困ったものだ。そういうときは、アマゾンさんに頼るしかない。読めればいいので、安価な汚れ本を注文した。
NHKブックスは内容に関係なく、本棚にひとまとめにしてある。そこに『料理の起源』はないことはわかっているが、ほこりを払いながら点検すると、インドのコメのことが書いてある本が見つかった。渡部忠世の2作、『稲の道』(1977)と『アジア稲作文化への道』(1987)だ。この本もすでに熟読しているのだが、私の関心が東南アジアだったので、後半のインド亜大陸の部分はちゃんと読んでいないようで、記憶になかった。今回読み返してみると、実におもしろい。インドのコメの前に、まずはタイのコメの話からしてみよう。
タイの例は記憶に残っていた。こういう話だ。日干しレンガには籾が混ざっていることが多い。レンガの耐久性を高めるために、籾やワラを混ぜるのだ。タイで調査すると、「スコータイ王朝時代、この周辺の稲の優占種はジャポニカないしこれに類似する種類であったことは間違いない」とわかったという。スコータイ王朝(13~15世紀ごろ)のコメは、丸かったというのだ。
次の王朝は、スコータイよりもずっと南のアユタヤで生まれた。14~18世紀のアユタヤ王朝時代の日干しレンガを調べると、「これらの煉瓦に含まれる籾は、スコータイ時代までのものと異なって、大部分がスレンダー・タイプのインディカの種類のものである」とわかった。
スコータイ時代の人は丸い粒のコメを食べていたが、スコータイより南のアユタヤ王朝時代の人は、今と同じ長粒種のコメを食べていた。これはどういうことだ。ヒントは、このアジア雑語林1450話にある『謎のアジア納豆』に関する話にすでに書いた。スコータイ時代の人が食べていたコメは陸稲だったのだ。陸稲は丸いコメで、多くは熱帯ジャポニカ(昔の言い方では「ジャバニカ、Javanica」)だ。アユタヤはチャオプラヤー河流域の平原で、広範囲の水田耕作が始まっている。熱帯ジャポニカの陸稲が、インディカの水稲に変わったことで、大量生産が可能になり、今のインドネシアなどに輸出する換金作物にもなった。天水頼みの熱帯ジャポニカは大規模生産が難しいし、日照時間の関係で、熱帯ではあまりよく育たなかったのだ。
以上は、『稲の道』の第5章までの記述だが、第6章の「インド亜大陸への旅」からは、熟読玩味していない。だから、まったく記憶に残っていなかった。今回、40年ぶりに再読する。
コメの話はまだまだ続く。