1465話『食べ歩くインド』読書ノート 第13回

 

 

 コメの話の2回目だ。

 渡部忠世は昔の稲の姿を求めて、インドに行った。ビハール州のナンダンガールという小さな村にある「アショカ王朝期」の遺跡で、タイと同じように日干しレンガに残された籾を調べた。「アショカ王朝期」というのがマウリヤ朝という事なら、紀元前317から紀元前180年ごろのことだ。

 「この煉瓦片にはたくさんの籾がらが含まれていた。当然、スレンダー・タイプのインディカの籾が含まれていると考えていたのに、明らかにジャポニカ類似のラウンド・タイプの籾が多い。四年前にインドシナ半島でおなじみになったあの籾型である」

 ウッタル・プラデーシュ州でも遺跡のレンガ調査をしたが、結果は同じだった。

 「古代インドにはジャポニカないしジャバニカ類似の稲が、広く栽培されていたらしいことは間違いないことになる。インドといえばインディカ型の稲が先史時代から栽培されてきたものと考えるのが常識だが、調査した古代の諸例に関する限りでは、むしろジャポニカに似たラウンド・タイプの籾の方が多く発見されるという、一見おかしな現象が事実として存在する」

 インドでも、昔はジャポニカ種のコメがいくらでもあったが、時代とともにインディカに変わっていく。「特に、一八世紀以降ともなると、インド各地からの籾がスレンダー・タイプで占められ、ラウンド・タイプと認められる例は、マディア・ブラデシュ、アンドラ・ブラデシュの両州に各一例がみられるにすぎない。特に、古くにラウンド・タイプの籾が最も頻出したウタル・ブラデシュの試料からは、全くこの種類が出てこなくなった」

 『食べ歩くインド』で、インドの丸いコメを何度か紹介しているが、インドでもタイと同じようなコメの歴史があったことがわかった。陸稲から大規模水田耕作への移行で、コメの種類が変わったということだ。インドのコメの歴史に興味があれば、『稲の道』の後半をじっくり読んでみればいい。

 そういえば、もうだいぶ前になるが、ある食文化研究会で渡部さんにお会いしたことがある。その昔、熟読した本の著者だから、けっこう緊張しながら、ご挨拶をしたことを思い出した。

 『稲の道』を再読しているうちに、『料理の起源』が届いた。ページをめくっていると、いろいろ思い出す。竹筒にコメを入れて炊く飯も、エチオピアのインジュラも、アジアの納豆も、スシの歴史も、すべてこの本で知った。これから食文化の基礎知識を得ようと思うなら、この『料理の起源』と『食卓の文化誌』(石毛直道)の2冊を読むことから始めればいい。

 さて、『料理の起源』で、パーボイルドライスの説明を読む。加工方法の説明のあと、こう書いてある。

 「パーボイルド加工の効果は、虫害、変質などを低下させて、貯蔵能力を高めるほか、加熱により米粒外層に多いビタミン類が内部に浸みこみ、精白後もよく残って栄養上良好な白米となる効果があるとされている」

 この解説に素人が口を挟むことはできないが、この次の行は、「違うなあ」と感じる。

 「パーボイルド加工の後精白された米の外観は、その加工をしない米とほとんど変わっていないので、インドの米屋の店頭では、見ただけでこの加工の有無の区別は難しいし、また炊く時の具合もとりたてて言うほどの差異もない」

 便利になった現代では、画像検索で「パーボイルドライス」がどういう姿をしているのかすぐにわかる。白色のものもあるが、ターメリックで染まったような黄色いコメもある。日本でもその昔、パーボイルド加工をしていたことがあり、そういうコメを「黄米」と呼んでいた。

 コメの話は、まだ続く。