水田耕作は、水が養分を運んでくれるから、大収量をめざさなければ、肥料はなくてもコメの栽培はできる。水田ではなく、畑の栽培は、肥料が必要だ。地味が肥えていれば、肥料なしでも栽培できるが、すぐに養分はなくなる。焼き畑というのは、山の草や木を燃やして、灰を肥料にする農業だから、何年かたてば、別の山を焼かないといけない。
トイレや肥料のことなどまったく意識せずに読んだのが、『サツマイモの世界 世界のさつまいも』(山川理、現代書館、2017)だ。私は、日本語なら『〇〇大全』、英語なら“All About 〇〇”といった本が好きだ。これ一冊で、すべてがわかるといった本だ。サツマイモに関するこの本では、「世界のサツマイモ」が気になって買ったのだが、通販だから内容がよくわからず買ったせいで、残念ながら世界のサツマイモ利用の記述は極めて少ない。しかし、サツマイモそのものに関する情報は当然多い。
この本を読んでわかったのは、サツマイモは自家用程度なら肥料がいらないらしい。イモを収穫した後、ツルや葉を土にすきこんでおけば、いずれ肥料になる。サツマイモは連作障害もないから、毎年同じ畑でサツマイモができる。その畑で麦を栽培しようとすると、肥料不足で育たない。ムギなどさまざま植物にはアレルギーを起こす物質があるのだが、サツマイモはアレルギーを起こさない。食糧危機が起きても、日本ではサツマイモさえ栽培すれば生きていけるなどと、サツマイモのすばらしさを列挙してあるのだが、へそ曲がりの私は、「それなら、なぜジャガイモほど消費されないのか」と聞きたくなる。
話をインドに戻す。インド人がサツマイモばかり食べているなら、肥料の心配はないだろうが、人糞はゴミだから捨て、家畜の糞は燃料などさまざまに利用する。肥料分はどれだけ残るだろうか。次の動画は(2:28あたりから)、パキスタンで牛糞を肥料に使っていることがわかるが、数百年前もこのように牛糞を肥料にしていたのかどうか、きちんと勉強しないと何とも言えない。
インドのトイレを考えるということは、農業や食文化史も合わせて考えるということだ。東南アジアの食文化を書いた拙著『東南アジアの日常茶飯』(1988)の最終章でトイレを取り上げたのはそういう意味があってのことなのだが、残念ながらその構想を理解してくれた人はほとんどいない。
『13億人のトイレ』は宗教や政治からトイレを取り上げた本だが、インドのトイレがどういう構造になっているのかという基礎学習が欠けていると思う。だから、トイレ建設・維持管理といった問題が、具体的に見えてこないのだ。
「地下のタンクに」という記述がある。これが、日本のくみ取り式トイレなら、不思議はない。しかし、用便後水で処理するインドでは、タンクはたちまち満杯になる。
日本のトイレは、貯蔵後汲み取る方式が長く続いた。そのあとは浄化槽方式だ。トイレから家庭の地下に埋めた浄化槽に流れ込んだ糞尿は、微生物の力で浄化し、下水に流す方式だ。そして、水洗トイレは、家庭のすべての汚水が公共下水道に流れるシステムだ。
さて、ここで問題になるのは、上下水道の設備がない場所のトイレはどうなるかということだ。インドやアフリカに限らず、アメリカやオーストラリアの砂漠の家でも、上下水道などない。
映画「バグダットカフェ」には、給水塔にペンキを塗っているシーンがある。水は地下水を組み上げて使っていることがわかる。では、下水はどうしているのか。タイのトイレの構造を調べていて、アメリカの砂漠の家も同じだとわかった。浸潤式トイレを作っているのだ。作り方は井戸を掘るのと同じだ。地面に穴を掘り、コンクリートの管を埋めて、土が崩れないようにする。この穴の底は土のままで手を加えず、コンクリートの管には穴がいくつもあいているから、トイレで流した水分は地中に染み込み、固形物だけが底に残る。バンコクでは、数年に一度バキューム車が来て、固形物を収集してもらうという。これで、しばらくは「水洗便所」としてキレイ使える。
こういうトイレ設備にはカネがかるが、農村なら家の敷地かその辺に、穴を掘れば、昔の日本のトイレができる。簡単な屋根があればいい。だから、「カネがないからトイレがない」というよりも、「家のトイレがきらいだから、その辺で用を足す」という意識の問題だということになる。
インドは、科学的な衛生や利便性や安全性などよりも、宗教的不浄感が優先する世界なのだ。