1486話 『失われた旅を求めて』読書ノート 第4回

 

 島 その2

 

 「バリは、観光客であふれている」という記述に驚いた。「何をいまさら」と言われそうだが、その記述が1930年代に出版された旅行記のものだから驚いたのだ。面倒なので出典を探さないが、オックスフォード大学出版局が復刊したインドネシア関連書でその記述を見つけた。バリは1920年代から西洋で話題になっていたことは知っていたが、「観光客であふれている」はおおげさだろうと思ったが、考えてみれば、当時は豪華客船の時代で、客船がバリに着けば、船客が行く場所は限られている。観光客であふれるのは当然だ。その船が出航すれば、島はまた静寂に包まれる。

 1974年、私はジャカルタにいた。「バリ島」という名は知っていたが、そこがどういう場所か、具体的には何も知らなかった。ヤシと白い砂浜以外のイメージは、わずかにガムランを知っていただけだ。宿のおやじにバリへの行き方を教えてもらい、鉄道と船とバスの長い旅に出た。「地球の歩き方」はもちろん、「ロンリー・プラネット」もなかった時代の旅行者は、断片的な知識に空想と妄想を加え、あいまいな旅行情報で旅立ったのだ。「どうにか、行けるさ。何とかなるさ、多分」という時代だった。放浪者を気取ったわけではなく、ガイドブックを持たない旅が、当時の常識だっただけだ。ガイドブックなど、欲しくてもなかったのだからしょうがない。1980年代でも90年代になっても、インターネットのない時代は、旅行情報のない地域など、世界のどこにでもあった。ここ20年ほどで、実際に行くまで、そこがどういう場所かまったくわからないという時代から、行かなくても路地裏までよくわかるという時代へ移り変わった。

 幸か不幸か、私はバリの画像をあらかじめ見ることなく、知識もなく、島の中心地デンパサールに着いた。路上の西洋人旅行者に声をかけた。街で過ごす気はないから、「島のどこに行けばいいのか」と聞くと、「クタに行け」といい、行き方を教えてくれた。クタという名の浜辺に着き、やはり旅行者に声をかけた。「ホテルはないから、その辺の家に行って、部屋はあるかどうか聞いてごらん」

 1974年のクタにはホテルはなかったが(のちに資料を調べると、74年にクタ・ビーチという小さなホテルがあったらしいが、記憶にない)、少しずつ姿を見せていた外国人旅行者のために、民宿を営む家があった。庭の一角に小屋を建て、3部屋か4部屋のベッドルームがあった。電気・水道はない。薄暮のころになると、おかあさんがランプを手にして、客室前のテーブルに置いていく。甘いお茶が入った魔法瓶と小さなバナナが数本置いてあった。朝になると、ランプが片付けられ、朝食用に甘いお茶とバナナが部屋の前に置いてあった。これが朝夕の心遣いだった。祭りの日は、ごちそうのおすそ分けがあった。幸せなことに、バリでは祭りが多い。

 食堂はたった1軒、ヤシの林のなかにテーブルとイスを置いただけの店だった。「スリー・シスターズ」と言っただろうか。自炊はしていないから、食事をその店だけで済ませていたとは思えないのだが、ほかの店の記憶がない。

 島にひと月ほど滞在しようと思ったから、ビザの延長をすることにした。デンパサールのイミグレーションオフィスに行くと、門の脇にイラスト入り掲示板があった。「こういう者は、オフィスに立ち入り禁止」と書いてある。イラストは、ランニングシャツ、半ズボン、ビーチサンダル姿の男だった。私はTシャツを持っていたし、長ズボンも持っている。しかし、靴を持っていなかった。あの頃の熱帯旅行者はビーチサンダルが正装だった。

 考えてみれば、靴を履いて日本を出たのは、1973年の初めての旅と、75年にヨーロッパに行ったときと、80年にアメリカ取材に行ったときと、81年にアフリカに行ったときだ。それ以外の旅はサンダルで日本を出ている。靴を履いて日本を出るようになったのは、ここ何年かのヨーロッパ方面の旅を繰り返すようになってからだ。

 1974年の私も、履物はビーチサンダルしか持っていないから、旅行者から靴を借りた。25センチの足に29センチの靴を履き、チャップリンになってイミグレーション事務所に出かけた。

 常時クタで遊んでいた旅行者は、20人もいただろうか。夜の娯楽は雑談だった。私は最年少で、旅のつわもの達がランプを前に語るモロッコやインドやメキシコなど、世界各地の話に耳を澄ませた。それは、クタがのどかだった最後の時代だった。