1488話 『失われた旅を求めて』読書ノート 第6回

 

 島 その4

 

 その国がまだビルマと呼ばれていた時代、インレー湖畔でしばらく遊んでいたことがある。1980年代半ばだった。湖畔にはニャウンシェという小さな町があり、ちょっとした買い物や、あるいはどこかに出かけるときは、この町の広場から出る小型トラック改造バスに乗った。

 ちょっとした好奇心で手織りの布を買ったのだが、何かの用途を考えてのことではない。町を散歩していると、布地屋を見つけ、店の隅でミシンを踏んでいる人を見たので、ふと服を作ってみようと思いついた。バンコクでもバリでも、暇つぶしのひとつとして、ときどきオートクチュール遊びをやっていた。手織りの布で、服を仕立てることなど、日本でやったら微細な我が身上(しんしょう)をつぶすことになるのだが、そのころの東南アジアでは仕立て代金は数百円からせいぜい1000円だった。

 ビルマでもいい遊びを見つけたので、数日おきにその布地屋に行った。若い店主は英語ができるから、世間話も楽しめた。夕方まで店にいると、帰り道がちょっと怖かった。月のない夜は田舎道が真っ暗で、道のわきの家にはランプの赤い明りが揺らいで見えた。狭いながらもニャウンシェの町には電気は来ていたが、数分も郊外へ歩けば、闇が待っていた。「そうだ、昔のバリもこんな風だった。あと何年かすれば、ここも観光地になるのだろう」と思ったとおり、インターネットで画像を見ると、どうやら有名観光地になったらしい。

 同じ1980年代なかばころ、フィリピンのボラカイ島でもランプで暮らしていた。フィリピンのセブやミンダナオなどガイドブックにも出てくる場所なら、なぜ行ったのかなどと考えないのだが、当時、ほとんどの日本人は知らなかったボラカイ島をどういういきさつで知り、その行き方をどうやって知ったのかが、まったく思い出せないのだ。旅行者から教えてもらったという記憶はないので、もしかするとロンリー・プラネットのガイドを読んだのかもしれない。

 数年前のテレビの旅番組だったと思うが、「ボラカイ島は、2012年のアメリカの旅行雑誌で、世界最高の島に選ばれました」というナレーションを耳にして、ホントかよと首を傾げた。おまけに、2018年に、「島周辺の海洋汚染がひどい」という理由で、半年間閉鎖されたというニュースも、「あの島が!」という驚きだった。

 どうしてボラカイ島に行ってみようと思ったのか覚えていないが、とにかく行くことにした。船でフィリピンを旅したいという欲求もあり、マニラから船に乗った。どのようにしてそのルートを知ったのかというあたりも、やはり記憶にない。

 マニラからパナイ島行きの船に乗った。ボラカイ島は、パナイ島の北端近くにある。1泊か2泊して、船は海上で停まり、ボラカイ島に行く乗客は、船の腹に空いた穴から海上の小舟に乗り移る。大きな船が着く港がないからだとわかったが、小さな舟が着く港もなく、小舟が浜辺に突き刺さるように着くと、客は海に降りて、じゃぶじゃぶと浅瀬を歩いて浜に上陸する。

 ゲストハウスは1軒あるだけだった。そこでランプの生活が始まった。翌日、自転車を借りて島を走ったが、農道や踏み分け道のような細い道しかなく、ほかにゲストハウスは見つからなかった。もしかすると、陸路では行けない場所にも宿があったのかもしれない。宿のすぐ近くの浜辺に、真新しいホテルが建っていたのだが、営業している気配はなかった。わがゲストハウスにすでにいた客は、ルフトハンザ航空勤務というドイツ人一家だけで、しばらくしてそのドイツ人もいなくなり、私ひとりになった。

 翌年、仕事でグアムに行った。繁華街タモンに出るために乗ったタクシーの運転手が、「ボラカイに行ったのか?」と話しかけてきた。「何で知っているの?」と聞いたら、シャツの胸を指さした。「ボクは、その島の出身なんだ」。

 そうだ。ボラカイで買ったシャツを着ていたのだ。わがゲストハウスの女将の営業活動で、島の名前が入ったシャツや袋を商っており、食事のたびにセールスをされるので、袖すりあうも他生の縁、”BORACAY”と染め抜かれたシャツを買ったのだった。

 ボラカイの名が入ったシャツを着ていたおかげで、フィリピン人運転手の案内で、グアムのフィリピン人コミュニティーのいったんを見せてもらった。