アフリカの街
東アジアや東南アジアの都市を見慣れているせいか、ナイロビに高層ビルが増えても、それほどの変化とも思えない。ごくたまにテレビで見るナイロビの街は、スーパーマーケットなどはできているが、基本的には1982年に私が見たナイロビとそれほどの違いはない。ナイロビの変化は、高層ビルが見える俯瞰図のナイロビではなく、かつて郊外だった荒地に広がり続けているスラム街の存在だろう。こういう変化は、観光客にはわかりにくい。
ドラマーの石川晶さんに初めてあったのは、アフリカのガイドブック『東アフリカ』(オデッセイ、1983)を出した直後だったと思う。石川さんが開いた恵比寿のアフリカ料理店「ピガピガ」の、開店記念パーティーで知人に紹介されてしばらく話をした。そこには、アフリカ専門旅行社の「道祖神」のスタッフや、アフリカ研究者の白石顕二さんたちもいたことを懐かしく思い出す。そのあと、アフリカ音楽のコンサートなどで石川さんと出会い、ロビーでちょっと雑談をした。石川さんは、1990年にケニアに移住し、2002年にケニアで亡くなったそうだ。そういういきさつを知らずに、石川さんがウガンダのカンパラを再訪するというテレビ番組を見た。それがいつだったか覚えていないが、1990年代だっただろう。テレビに映るカンパラは、私が知っているこの街の十数年後の姿ということになるが、まったく別の街に生まれ変わっていた。
蔵前さんは『失われた旅を求めて』で、1991年のカンパラを「まるで廃墟のような都市だった」と書いているが、1982年のカンパラを知っている私には、蔵前さんの写真を見ても、「大分よくなった」と思う。石川さんが紹介したカンパラはもっと良くなっていたから90年代末かもしれない。
1982年のカンパラは、まだ内戦が続いていた。機関銃を持った兵士が街を闊歩していたし、夜は銃撃の音が聞こえた。街に食べ物は少なかった。1軒の飯屋は昼の1時間ほどの営業で、売り切れになった。ほかに営業している飯屋は見つからなかった。だから、食料採集民となって、街を歩いた。ビスケットを見つけたら買い、キャッサバのフライを売る露店があれば、新聞紙に包んでもらい夕食にした。欧米や日本で「アフリカの飢餓」が叫ばれるのはそのちょっと後だ。アフリカを救済しようというイギリスの活動「ライブ・エイド」は1984年。USA for Africaの活動で、「We are the World」を発売したのが1985年だった。
ウガンダからトラックに乗せてもらい、スーダン南部の小さな町ジュバに行った。そのトラックは、ケニアのモンバサからウガンダ経由でスーダン南部に援助物資を運んでいた。そのトラックに乗せてもらっている間は、助手が作るうまい飯にありつけた。そして、到着したジュバではまた食い物が充分ではなかった。ここでもカンパラの飯屋同様、たった1軒の飯屋が夕方開店し、1時間ほどで売り切れになった。外国人旅行者がその飯屋にやってくると、反政府活動を訴えるビラが配られた。考えてみれば、印刷する紙さえ貴重品だったはずだ。この小さな町で、いつ来るかわからないナイルを下る船を待っていた。
2011年に、スーダン南部が分離独立し、南スーダン共和国となった。その首都がジュバだと聞いて、「まさか」と思ったが、南部最大の町なのだから、当然といえば当然だ。私が訪れたころのジュバの人口は8万人ほどで、今は50万人ほどいるらしい。ちょっと疑問を書いておくと、ウィキペディアでも日本の外務省の資料でも、南スーダンの人口は1000万人を超えているのだが、ウィキペディアの「南スーダンの人口上位10都市」の人口を合計しても200万人だ。それなのに、総人口が1000万人を超える事情がわからないのだ。全国の村々に800万人も住んでいるのか?
それはともかく、ジュバに空港ができたというので、首都らしくなったのかとネットの画像を見たら、大した変化ではない。
南スーダンは、今のところ世界で「もっとも若い国」で、その前は東ティモールだった。そこで、この2国の首都比較をしてみる。ネット画像で見る限り、ジュバよりも東ティモールの首都ディリの方がはるかに都会的だ。