1492話 『失われた旅を求めて』読書ノート 第10回

 

 ラオス

 

 ラオスに初めて行ったのは、1994年だった。同じ年、蔵前さんもラオスに行ったのだと、『失われた旅を求めて』を読んで初めて知った。そのちょっと前から、ラオスの個人旅行は解禁になっていたが、ビザ代が異常に高かったのでためらっていた。そのころタイで暮らしていたから、ラオスへの交通費は安いのだが、タイの物価を考えるとビザ代が「外国人の足元を見ている価格」に思えるほど高かったから、旅行解禁と同時に「よし、行くぞ!」とはならなかったのだ。

 1960年代のラオスを知っている日本人から、「ビエンチャンは、対岸のタイの町ノンカイよりも小さい」という話を聞いていた。以前にもノンカイに来たことがあり、外国人旅行者は渡れない渡し船を川岸で眺めたことがあった。1970年代なかばから20年ほどの間、ラオスは「行けない国」のひとつだった。94年にはすでにメコン川にかかる友好橋ができていたので、バスで入国し、オートバイを改造した三輪車に乗ってビエンチャンに向かった。山がちの風景になったが、タイ語が通じたので、外国に来たという実感はなかった。

 知人の話通り、ビエンチャンはノンカイよりも小さく、安宿も食堂も「ないわけではない」という程度だった。ビエンチャンは首都なのだが、タイの小さな地方都市の方が、食堂や商店など消費生活ははるかに豊かだった。社会主義国だから、ツアー客が利用するラーンサーンホテルなどは国営だった。いかにもソビエトが建てたという外観のホテルで、ずっとのちにチェコのチェスキー・クロムロフで似たスタイルのホテルを見かけて、ビエンチャンを思い出した。

 2度目にラオスに行ったのは、2007年だった。バンコクの友人から、ルアンパバンの話を聞いた。それほど興味のある町ではなく、写真で見ると、なんだかテーマパークのようだ。「そう、たしかにテーマパークのようではあるけれど、行く価値はあると思う。今後、過去の姿に戻るようなことはないのだから、見るなら今だ。すぐに行ったほうがいい」そう言われて、バンコクからルアンパバンへの飛行機に乗った。もう、ビザを取る必要はなかった。現実に目にしたルアンパバンは、感動はないが、失望もなかった。

 そういえば、知り合いのイタリア史の研究者から、ベネチアに関しても同じようなことを言われた。「ベネチアはたしかにテーマパークのようなところだけど、あんな街はほかにないんだから、1度は行ってみる価値はあると思うよ」

 ベネチアはすでに保存が決まった街だから、5年後に再訪しても変わりはないが、ルアンパバンは世界遺産に指定されても、変わりづけるだろう。

 3度目にラオスに行ったのは2015年で、メコン川下りの旅をした。その20年ほど前に、天下のクラマエ師はルアンパバンからタイのフェイサイまで川を上ったのだが、私はこのコースを逆に進んだ。『失われた旅を求めて』の62ページに載っている船はまだ現役で運航していたが、私が乗ったのはこの船の幅2倍、長さ2倍の船だった。1日目8時間、2日目6時間ほどの船旅だった記憶がある。クラマエ師ご所望の船内トイレはあるようだったが、船上では飲まず食わず出さずだったので、使用体験はない。

 クラマエ師が乗った62ページの舟をアパートに例えるなら、玄関で靴を脱いで上がる下宿屋タイプの3畳間(トイレ共同、風呂ナシ。入口の戸は引き戸)で、その20年後に私が乗ったのは下の写真の船で、4.5畳(台所・トイレ付、風呂ナシ)の木造モルタル2階建て、ドア隣に洗濯機が置いてあるアパートという感じだ。20年の差は、それくらいだ。クラマエ時代と違い、私が乗った船は新しく、川下りなのだが、船旅は「やや短かい」という程度だった。川幅が狭く、岩が多いので速度を出せないのだ。急ぐ客、スリルを味わいたい客は、直訳すると長尾舟となる細長い舟に自動車のエンジンを積んだ高速船でぶっとばす。客はライフジャケットにフルフェイスのヘルメットで、まるで競艇のように身をかがめている。あれも、つらい姿勢だ。

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  この時の旅は、2016年のアジア雑語林803~815話に書いている。そこでも書いているように、ビエンチャンは過去の記憶の断片はほとんどない別の街に変身していた。私の旅行体験のなかで、これほど変化した街はほかにサイゴンがある。