1496話 『失われた旅を求めて』読書ノート 第14回

 

 カオサン その3

 

 カオサンに関する論文を書いている研究者は何人もいるが、どれも感心しない。その理由はタイやカオサンの歴史を詳しく調べていないからであり、カオサンについてわずかに書いてある情報は、『カオサン探検 バックパッカーズ・タウン』(新井克弥、双葉社、2000)をネタ元にしているからなおいけない。この本では、ベトナム戦争当時、R&R休暇の米兵がカオサン通りの北にあるViengtai Hotelに集まっていて、それがカオサン誕生のひとつのルーツだとしている。ビエンタイホテルは、1953年創業でR&R用に作ったホテルではない。このホテル誕生のいきさつはまったく知らないが、軍の施設や公官庁が多い周囲の環境を考えれば、地方公務員の出張用や公務員の宴会用のような気がする。

 酒と女と麻薬を求めてやってくるR&Rの米兵が、王宮近くの住宅地にポツンと1軒だけ営業しているこのホテルを利用するだろうか。ホテルのそばに飲食店も風俗営業店も、もちろんない。ベトナムからバンコクに続々とやって来るR&Rの客が、このビエンタイホテルだけでまかなえるわけはなく、バンコクのホテル史を語るこの本で、R&Rを語っていないのも変だ。ビエンタイホテルには、たしかに若者が集まっていた。この中級ホテル内に、AUS(Australian Union of Students)が運営する旅行会社があって、当時はまだ一般的にはなっていない格安航空券を扱っていた。1970年代前半のバンコクには、AUSのほかにも学生団体が運営する旅行社があり、学割航空券を売っていた。もちろん、ニセ学生証も簡単に手に入った。1970年代後半になれば、格安航空券はバンコクのどこででも買えるようになるのだから、ビエンタイホテルのAUS事務所目当てに旅行者が続々とカオサンに集まってきたとは思えない。

 ついでに、このアジア雑語林に書いた過去の文章から、この本の著者の学識を紹介しておく。2007年の188話だ。

 「カオサン研究」や「バックパッカー研究」といったものに私が批判的なのは、例えば「ベトナム戦争とタイ現代史」とか「バンコクのホテル史」や、その大前提となる「若者の海外旅行史」といった問題の研究をせずに、カオサンにやってきた旅行者のアンケート調査という手法に偏っているからだ。

 

 今回は、カオサンの歴史に関する想像を書いてみる。

 1990年代のある日、初めてカオサン見物に行った。外国人旅行者だらけで、私にはおもしろそうな街ではなかった。ただ、旅行者が持ち込んだ書籍が古本屋に積んであるから、古本あさりだけはおもしろかった。散歩の後、のどが渇いたので食堂に入り、メニューを見て、驚いた。ヘブライ語のメニューなのだ。パイプ椅子があるだけの、どこにでもある食堂なのだが、印刷されたメニューだけが、ほかの食堂とは明らかに違っていた。    

 そのちょっと前に、バンコク在住の編集者が、「カオサンって、イスラエル人旅行者が作ったという話を聞いたんだけど・・・」と話していて、その時は「そうですか」とあいまいな返事をしただけだが、「これは、もしかして・・・!?」と想像のエンジンが動き出した。

 世界を旅している若者たちのなかで、群れたがる人達が2グループある。日本人とイスラエル人だ。今なら、そこに韓国人と中国人が入るだろうが、1990年代のアジア人旅行者はまだ日本人とイスラエル人だけだ。日本人とイスラエル人が孤立するのは、ひとつには「英語ができない」せいだ。イスラエル人は日本人よりはるかに英語ができると思っていたのだが、のちにイスラエル人研究者が書いたバックパッカー研究の有名論文、Erik Cohenの” Backpacking: Diversity and Change”に、(バックパッカーたちのなかには)「自国民としか話をしない者たちがいて、その顕著な例がイスラエル人だ」とある。その論文で、「英語が苦手だから」とイスラエルの若者は答えている。フランス人も英語ができないが、スイス人やオランダ人やカナダ人などを探すだろう。フランス人専用のゲストハウスがあるという話を聞いたことがない。

 この話は長くなるので、次回に続く。