2002年にイベリア半島を旅した。スペインは1975年以来27年ぶりだった。東ヨーロッパの開放や韓国や中国の経済力向上に伴い、それらの国々の人々に海外旅行をする余裕ができたことで、スペインにやってくる観光客も急増していた。私が初めて行った1975年のスペインは、独裁者フランコの末期で、街角や列車内に武装した軍人が立ち、戒厳令下のような雰囲気だった。あのときの重苦しく陰鬱な街は、観光客を迎えることで明るくなった。薄汚れた建物はきれいに生まれ変わり、しゃれたカフェもできた。最大の変化に見えたのは、東京でいえば東京駅に当たるアトーチャ駅だ。私が知っていたアトーチャ駅は1992年に使用を終了し、すぐ裏に新駅ができている。日本なら旧駅舎は取り壊してガラス張りの商業施設を建てるだろうが、スペインは、旧駅舎の外観はそのままで、内部に植物園とカフェなど商業施設を取り込んだ。マドリッドは、1975年に作った頭の中の地図がまだ使用可能だった。
ポルトガルは、2002年が初めてだった。いくつもある展望台に立って街を眺めると、ここ数十年にできたと思われるような高層ビルはほとんど見えなかった。アジアではおなじみのガラス張りのビルは1棟見えただけだ。1998年のリスボン万博会場跡とその付近は近代的な建物ができてはいるが、遠くから眺めて目立つビルはなかった。
街といえば、超高層ビルが林立するものという東・東南アジアの常識が身についてしまっていたそのころの私には、新しい建物が見えないリスボンが逆に刺激的だった。ロンドンにもパリにも現代の高層ビルはある。リスボンにはない。その違いは、長く続いたサラザール独裁政権とその後の財政難により、戦後ずっと冬眠が続いていたからだ。
初めてのポルトガルは、スペインからバスでポルトガル北部に入り、リスボンまで南下し、またバスでスペインのセビリアに戻るというルートだったが、その旅で「取り残されたポルトガル」を見た。古い建物を保存しようと努力して残した都市景観ではなく、なにもしないから残っている家々でしかないとわかった。ポルトガル人は、21世紀に入っても、まだ大航海時代の夢のなかで生きていた。それだけが彼らの誇りだった。
リスボンは、看板などをCG加工すれば、18世紀の映画のロケ地にそのまま使えた。変わらない街は、外国人旅行者や高齢者には幸せなことだが、その街で生まれ育った若者にはどうだろうか。リスボンほどの大都市ではなく、地方の古い小さな町だと、200年前と変わらない町で、あまり変わらない生活をして、祖父と同じ仕事を同じ職場でしていることになりそうな自分を、どう思うだろうか。もし、その若者が私なら、うんざりして、街を飛び出す。きっと国外脱出するだろう。
東京はいつも工事中で、道路はくねくねしている。電柱はじゃまで、うるさくて、人が多い。ヨーロッパの古く、静かな街で育った若者が東京に魅力を感じるのは、こういう混乱と活気がワクワクさせるのだ。日曜日に営業している商店がある。24時間営業のコンビニがある。そういう活気と変化、街の「移ろい」が魅力なのだ。
東・東南アジアの人間は、都市の過去には興味はない。どんどん壊して、新しいビルをどんどん建てればいい。家電製品を次々と買い替えるように、街も新しくすればいいと考えるから、東・東南アジアの街の姿が急激に変わっていく。旅先の風景が変わるか変わらないかという違いには、住民のそういう気質の問題もある。
この文章を書くために、初めてグーグルマップでリスボンを見ると、2度目に行った2016年の、記憶に残るあのリスボンに、真新しい近代的な建物が建っている。ガラス張り超高層というのは少ないが、新しい中層建造物は郊外に次々とできているようだ。あのポルトガルも、少しずつ変わってきている。
古本屋で、1960年代のヨーロッパの旅行写真集を見つけた。これが、まあ、現在とほとんど変わらないのだ。ヨーロッパの街が変わらないのではなく、少しずつあるいはかなり変わってきているのだが、観光写真家は変わらない風景(それがつまりが「観光地」なのだが)を撮影していて、自動車と人々の服装だけが時代の流れを感じさせた。
蔵前さんの『失われた旅を求めて』を読みながら思い出したことや考えたことを書いてきたこの連載は、今回で終える。かつて旅した土地を、グーグルマップで疑似体験できるのは、ライターとしては幸運なことだが、思い出に浸れない旅行者ははたして幸せだろうか。