1503話 あれから8か月 その5

 

 矛盾している行動だとはわかっている。中古CDショップに入ったのに、なるべく買わないようにブレーキをかけている。わざわざ神保町の古本屋街に来たというのに、なるべく本を買わないようにブレーキをかけている。買ったCDはすべて聴いているが、まだ読んでいない本はひと月分以上ある。

 世間には、物を買うことが好きな人がいる。テレビの通販番組で見た商品をすぐさま注文し、それでもう満足して、商品が届いても箱を開けないという人もいるそうだ。音楽の趣味の薄いオーディオファンがいる。音楽よりも機械が好きな人たちで、高い機器を買い込んだり部屋を改装することに情熱を燃やす人がいる。写真をあまり撮らないのに、やたらにカメラを買い込む人がいる。本に関しても、読むよりも多く買うことに喜びを感じる人もいる。コレクターも同類で、読みたいから買うのではなく、買いたいから買うのだ。持っていることが喜びなのだ。「いずれ使うかもしれない資料として、目についた本は次々に買う」という資金も置き場所もない私は、基本的には、読みたい本をほんの少し買うだけだ。

 10代のころ、財布に1万円を入れ、神保町で所持金のすべてを使えるような散歩をしたいと思っていた。1万円あれば、その日に欲しい本はほとんど買えるはずだ。21歳で外国旅行をしたから、1万円というカネが自由にできないわけではなかったが、神保町でそんな大金を1日で使ったことは、現在に至るまでほとんどない。高い本を買ったとはっきり記憶に残っているのは、3万円ほどした『タイ日辞典』(冨田竹二郎編)をアジア文庫で買ったことだ。2000ページを超える画期的な辞典で、アジア文庫では、まるで3000円の本のようによく売れたそうで、間もなく品切れになった。この辞書は、冨田先生の大阪外国語大学の退職金を注いだ自費出版で、発行部数は知らないが500部だとしても、売上総額は1500万円、1000部なら3000万円になる。退職金と本の売り上げ収入が同じ年だったので、税務署が目をつけ、「査察が入りました。戦前から資料を買い集め、スタッフを雇い作ってきた辞書なのに、脱税を疑われました」と悲しそうな手紙をもらったことを思い出した。その当時、まだタイ文字は読めなかったが、それでも読みたかった。だから、普通の本を読むように、最初のページから発音記号を頼りに読んでいった。私のタイ研究にかかわる単語を見つけると、ノートに書きだして、自分の辞典を作った。

 読みたくても、読解する能力がないと思われる本は買わないが、中国語の写真集や事典など、読めそうな部分があれば買うこともある。しかし、「こんな本が書棚にあったら格好いいだろ」というミエだけで本を買うカネも趣味もない。書棚を他人に見せる趣味もない。そういえば、地方のある書店の思い出話として、バブル期に邸宅を建てた人物から、「応接間に本を置きたいから、見栄えのする本を100万円ほど届けてくれ」という注文があったという。文学全集と百科事典はその類だろう。

 全集、叢書、シリーズ本を全点購入しないと満足できない性癖ではない。私に、コレクターの血は流れていない。収集癖はない。物欲もほとんどない。ケチで貧乏だから、読めない本、読まないとわかっている本を買う余裕はない。もちろん、置き場所もない。

 「蔵書3万冊」とか「5万冊」といった自慢は、「世界113か国を旅行」というのと同じで、その数字は財力を表す数字でしかなく、内容を表していない。つまり、量の説明だけで、質の説明になっていない。