1504話 あれから8か月 その6

 

 貧乏なのに、なるべく図書館で本を借りないようにしているのは、コメントや疑問点を本に書き込めないからであり、重要な本はまた必要になることがあるからだ。人名など事実確認のために、わざわざ図書館に出かけたくない。それほど高くない本なら、手元に置いておきたくなるのは、雑多なことを書くライターにとって、本は必需品だからでもある。

 その昔、駆け出しのライターで、いまよりもずっと貧乏だった頃、井村文化事業社発行、勁草書房発売の東南アジアブックスや、トヨタ文化財団の出版助成を得た、新宿書房、めこん、段々社などから出版されるアジアの小説や研究書が続々と出版されていた。1970年代末から80年代だ。全部で100点くらいあっただろうか。その全作品を読みたかったのだが、2000円以上する本だから、次々に買う余裕はない。そこで、しかたなく図書館で借り、ノートに内容をメモしながら読んでいったのだが、のちに多少の原稿料が入ると、すでに読んだ本も買っていった。重要だと思った本は付箋をつけ、傍線を引いてまた読んだ。普段は小説を全く読まない私が、この時期に限ってアジアの小説を100冊ほど読み続けた。勉強のためではあるが、もちろん楽しかったからでもある。『タイからの手紙』や『東北タイの子』や『田舎の教師』などは、通読したあと折に触れてまた拾い読みした。タイ旅行を重ねるにつれ、通読した時にはわからなかった食べ物が、「ああ、これのことか」とわかるようになる。おもしろい小説であると同時に、タイ理解に役立つ参考書でもあった。このシリーズは、今に至るも、東南アジア研究の第1級の資料だ。

 あの時代、私のように特定の国に限らず、東南アジアの小説を片っ端から読んでいたのが、当時京都大学教授だった土屋健治さん(インドネシア政治)だった。そういう共通の読書体験があり、めこんを通じて土屋さんと縁ができた。ある日、バンコクで遊んでいる私のもとに、土屋さんから手紙が来た。「いろいろ雑談もしたいので、帰国したら、京都に遊びに来ませんか。交通費くらいは出しますよ」というものだった。春になって帰国して京都に行くと、東南アジア文学の勉強会に招いてくれて、京大の東南アジア研究者を紹介してくれた。その勉強会の前に、「前川さんが好きそうな場所に案内しましょう」といって、京都大学東南アジア研究所(現東南アジア地域研究研究所)の図書館に連れていてくれた。私が書籍を眺めている間に、「いつでも、資料を好きなように使ってください」といって図書館の入館証をプレゼントしてくれた。その夜は、押川典昭さん(インドネシア文学)といっしょに土屋邸に泊めていただいた。研究者でもないライターに、それほど親切にしてくれた。そういう縁は、すべてめこんの桑原さんの仲介がきっかけである。

 井村文化事業社の東南アジアブックスのシリーズを買いなおした後でも、神保町の古本屋でこのシリーズを見つけると、安ければ買って友人に送った。アジア文庫の大野さんが、「品切れで、困っているんだ」という何冊かの本が比較的安く売っていると、買っておいて原価で売却した。タイの小説は比較的手に入りやすかったし、増刷されたものもあるのだが、ほかの国の小説、例えばフィリピンの『ノリ・メ・タンヘレ』(ホセ・リサール)などは、神保町でもあまり見かけなかった。比較的手に入りやすく、しかも破格に安かったのが、神保町古本まつりの時だった。そんなわけで、秋は古本まつり、東南アジアの小説、アジア文庫という連想が働くのだが、今年は「この時節柄」、古本まつりは中止になった。

 アジア文庫の大野さんも土屋健治さんも、還暦を知らずに50代で亡くなった。私は、大野さんと土屋さんのどちらの追悼文集にもかかわっていると、たった今気がついた。