いつもなら、三省堂に行けば、1階奥の海外旅行書コーナーをチェックして、階上で文庫や新書の新刊書をチェックすることから三省堂散歩が始まるのだが、今回はトイレに寄っただけで、すぐ出てしまった。当分は、旅行には行けないとわかると、本の買い方が変わる。いつもなら行きたいと思う地域の関係書を買い集めるのだが、どこにも行けないとわかると、本をチェックする意気込みがそがれる。
東京堂の平台には、いつもほしくなる本が数冊はあり、「だけど、高いよなあ」などとため息をつくことが多いのだが、幸か不幸か、きょうは欲しい本がない。そこで、新聞の書籍広告で見て、おもしろそうだとは思ったが、内容を点検してから買おうと思っていた『ウンコはどこからきて、どこへ行くのか』(湯澤規子、ちくま新書)を買った。この本のことは、いずれ詳しく書くことになるだろうが、私同様、食べる話と出す話の両方に深い関心がある研究者の本だ(すでに読了したが、期待したほどではなかった。詳細は、いずれ。間もなく、オランダ人が書いた『うんこの博物学』という本が出版されるそうだが、しばらくは買わない)。
古本屋で、アマゾンの「ほしい物リスト」に入れてある本を見つけたので、買った。幕末から明治の日本人の外国体験話を書き続けている著者の新刊『サムライ留学生の恋』(熊田忠雄、集英社)は、明治初期の国際結婚の事例集。文庫の棚に『目からハム』(田丸公美子、文春文庫)があったので、これも買った。私が興味のある異文化モノと言語の両方を書いたエッセイで、彼女の本はすでに何冊か読んでいる。
古本屋の棚に、『耽羅紀行』という文字が見えた。読めない、知らない、内容がわからない。棚から本を取り出すと、司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズの第28巻だとわかった。この書名は「たんら紀行」と読み、韓国済州島のことだ。
誰の本であれ、基本的に小説は読まないから、司馬の本も小説は読んだことがない・・・。いや、今思い出したのだが、南太平洋で調査をしていたころの鶴見良行の文章に出てきた司馬の小説は読んだ。オーストラリアの北の島でボタンなどに使う貝を取る日本人の物語、『木曜島の夜会』は読んだことがある。おもしろかったという記憶はある
司馬のエッセイは、ベトナムを語る『人間の集団について』など何冊かは買って読んだのだが、記憶がない。「街道をゆく」シリーズも何冊かは読んでみたのだが、文章がすぐ飛ぶあの文体が苦手で、挫折した。ところが、イベリア半島を旅した時に持って行った『南蛮のみち』2冊は、旅先で読んだせいか、じつにおもしろかった。その地の専門家の案内で巡り、帰国後に調べまくった本だから、元手がかかっている。読みでがあった。
そういう経験があったから、古本屋でこの「街道をゆく」シリーズの一冊を見つけ、「朝鮮本土では柑橘類は育たない。ただひとつ、その南端の海上にうかんでいる済州島だけ適地なのである」という文章が目に入り、買うと決めた。朝鮮を語るとき、柑橘類から語る発想力に参った。「行った、撮った」というだけの旅行本や、自分がしたことしか書いてない旅行記にうんざりしていたから、足と頭の両方をたっぷり使った本を読みたくなったのだ。
帰宅してすぐ、どうせなら韓国を取材して書いた『街道をゆく 2 韓のくに紀行』も読んでおこうと、すぐさまアマゾンした。そして、この文章を書いている今、その本はすでに読んだ記憶がかすかにあることに気がつき、本棚をチェックしたら、1978年版の文庫が見つかった。ああ、いつもの二重購入だ。80年代に入ってから買ったと思うのだが、40年ほど前のことだから、記憶が薄れているのは致し方ないのだが、標語が頭に浮かんだ。
「クリックの前にちょっと待て、その本は棚にあるかも」
不幸中の幸いは、昔買ったのは78年出版の文庫で、当時の文庫の活字がこんなに小さいのかと驚くほど小さい。今回注文したのは活字が大きいワイド版なので、これなら読みやすい。よしよし。私が中高校生時代に読んでいた文庫は、78年のこの文庫よりもっと活字が小さかった。古本屋のワゴンに入っている変色した安い文庫だから、1950年代の岩波や新潮の文庫も混じっていた。それでも何の不満もなく読んでいたのだが、今の中高校生は読めるが読まないような気がする。若者たちが見ているスマホの文字は、60年代の文庫の活字よりも小さいが、だからといって字が小さく字間行間の詰まった昔の文庫は読む気はないだろうなどと、78年の文庫を見ながら思った。
本屋巡りをしているうちに薄暮になり、食べそびれた昼食をゆっくり食べている時刻ではないので、駅に行く途中のはなまるうどんに寄った。客は、私ひとり。