帰りの車内で、『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019』(早瀬晋三、めこん)を読み、帰宅してもそのまま読み続けた。予想していた以上に、おもしろい。
2年ごとに開催される東南アジアのスポーツ大会が始まったのは1959年だった。SEAP GAMES(South East Asian Peninsular Games)という名称で、第1回はバンコクで開催された。参加国は、タイ、ビルマ、ラオス、マラヤ連邦、シンガポール、南ベトナムの6か国だった。当時の東南アジア諸国の政治状況を説明すると、それだけで1万字ほどは必要になるから解説はしない。そもそも「東南アジアとは」という話をすれば、『1959年版 朝日年鑑』で「東南アジア」を調べると、インド、パキスタン、セイロンも含まれているのだから、話がややこしくなる。もともと独立国だったタイを除けば、どの国も独立後のゴタゴタを抱えている。タイにしても、軍の内乱から57年9月にクーデタがおきたのだが、その後再び軍内部の権力争いが続き、翌58年10月にまたしてもクーデタがおきている。そういう時代のスポーツ大会で、1977年にSEA GANES(South East Asian Games)と名を変えた。
この本は、それぞれの大会に関して、当時の政治や経済状況の解説があり、続いて地元の英語新聞に載った大会の記事を紹介するという2部構成になっている。著者がスポーツの専門家ではないからだろうが、各競技の成績を詳しく紹介するよりも、雑多なエピソードを集めている。これがおもしろい。例えば、こういう話だ。
- 第8回(1975年)のバンコク大会。会場で爆弾騒ぎがあった。対立する学生集団のケンカである。わかりやすく言えば、手製爆弾を使った「ビー・バップ・ハイスクール」のケンカである。タイでは、こういう抗争は珍しくない。
- 第9回(1977年)クアラルンプール大会。開会式で使われたハトは、その後食料になったのではないかという噂を伝えている。サッカーのインドネシア・タイ戦は大乱闘になって中断。会場で「乱闘、暴動」といった報道がほかの大会でもある。大会に対する不満もあるだろうが、政府への不満がこういう形で現れたような気もする。
- 第11回(1981年)のマニラ大会。フィリピンはアメリカの影響を強く受けているので、サッカーに関する知識がなく、会場となった大学の運動場には照明もゴールポストもなかった。
- 選手をトラックで輸送するとか、選手団が到着しても、午後までチェックインさせないとか、開催国の不手際は数知れず、それに対する不満もあったが。それほど大ごとにならなかったのは、「お互い様」という配慮があったからだ。開催国は移っていくから、運営に文句を言えば、「次は我が身」となって責められることになる。だから、「まあ、まあ」と我慢してきた。そういうあいまいな、なあなあのなれ合い運営に口をはさんできたのが、外国人コーチや欧米で指導を受けてきた選手たちだった。いままでのままの大会でいいのか、それともオリンピックのような国際水準の大会運営を目指すのかという問題は、結局「このままでいい」ということになったらしい。 このあたりのいきさつを、早瀬さんはマラソンの円谷と君原を例に話を進める。SEAゲームをオリンピックのようにするということは、「死ぬ気で頑張る!」と言い、自分を追い詰め、ついには自らの命を落とした円谷である。このままでいいというのは、「死ぬ気で頑張らなくてもいいよ」という君原なのだという。練習と仕事のバランスをとればいい。練習だけに専念できる環境にないのだから、仕事の合間に練習していればいい。子供の面倒をみてくれる人がいないなら、試合中に子供のおしめを代えてもいい。そのくらいの余裕があるのが、「我々のスポーツ大会だ」。そう思っているという空気を、著者は新聞記事などから集めている。東南アジアのスポーツ大会を、「だらしない運営だ。日本人なら、すべてうまくやるのに」と読むのではなく、問題の多い内政と外交だったけど、大会の運営はこうやってなんとかやってきましたよという喜びの報告なのである。
もうずっと前のことだが、クーデタで権力を掌握したタイの将校が、マスコミの取材を受けた。秩序の回復や汚職の撲滅などをこれからの政策方針に挙げたので、記者から「それでは、シンガポールのような国にしたいということですか?」と質問された。
「とんでもない! 規則に縛られるのは息苦しい」と答えた。そんな新聞記事を思い出した。
人間の歴史を描いたこういう本を、「おもしろい!」とわかる研究者が少しでも増えてくれればいいなと、思う。
4000円もする本だから、買って読む人は少ないだろうが、図書館で探して、もしなかったら、購入希望を出して読んでみるといい。