『客室乗務員の誕生』(山口誠 岩波新書) その 2
1954年、日本航空は戦後初の国際定期便を飛ばす。前回話したサンフランシスコ線だ。日本航空にとっては晴れの飛行だが、残念ながら航空券はほとんど売れなかった。その理由を山口はこう書く。
「そうした不振の理由に、高額な運賃があった。当時の正規運賃は東京・ホノルル間で515.5ドル(18万5436円)、東京・サンフランシスコ間で650ドル(23万4000円)であり、これは同じ路線を飛ぶパンナムと同額だった(朝日1953年11月13日)。新規参入したアジアの航空会社としては強気の価格設定だが・・・・」
日本航空とパンナムの料金が同額なのを「強気」だとしているが、同額であるのは当然なのだ。同額でなければいけないのだと私は推察する。
IATAという組織がある。日本では「イアタ」と呼んでいる。 International Air Transport Associationの略称で、日本語では国際航空運送協会というらしいが、今の今までこの日本語名称を知らなかった。世界の航空会社の業界団体だ。
LCCはもちろん、格安航空券などというものも表に出てこなかった時代、航空運賃のほとんどはIATA加盟の航空会社が定める「定価」で販売されていた。東京・サンフランシスコの航空運賃は、誰がどこで、どの航空会社の便を買おうが基本的に同じ料金だったのだ。1960年代から80年代初めあたりの時代に地球をウロウロしていた日本人旅行者は、そういう航空券を「ノーマル・チケット」などと呼んでいた。今でもそういう切符がある。例えば、東京から日航機でホノルル経由サンフランシスコに飛ぶ予定だったが、ホノルルで日航機が故障して飛べなくなったとする。「ちゃんとした切符」を持っている旅客は、他社の便に自由に乗り換えることができる。私には経験がないが、ビジネスクラスがそれだと思う。
IATA に加盟している航空会社は、航空券を定価で売る義務と権利がある。だから、日本航空とパンナム(パン・アメリカン航空)の運賃は同じなのである。日本航空は、1953年にIATAの準会員になり、54年に正会員になっている。だから、客集めのために、日航便を格安で売ることは、できなかったのだ。
1960年代や70年代に存在した「ノーマル・チケットよりも安い航空券」は、IATA非加盟の弱小航空会社(日本の近くでは、ビルマ航空などがそうだった記憶がある)のものか、航空会社が営業目的で使った航空券の横流し品や団体割引券などだ。「横流し」というのは、航空会社は、テレビや新聞・雑誌などの広告費の支払いを航空券でやっていた。航空会社の実際の負担額は小さいし、マスコミや広告代理店は海外取材などに使える。おそらく、政治家にも流れたと思う。そういう航空券を裏で販売していた者がいたらしい。1年間有効で、無記名だっただろうと思う。
もう1点、変なことが書いてあるページを取り上げる。91~92ページだ。
「当時」というのが、具体的にいつなのかがわからない文章だが、山口はこう書く。
「当時の国際線の客室は商用渡航のビジネス客が多数派であり、海外旅行へ向かう観光客はじつに少なかった。終戦から20年ちかく続いた日本人の海外渡航の実質的な禁止は、東京オリンピックにあわせて1964年に自由化されたものの、日本政府は「1人年1回、持ち出せる外貨は500米ドルまで」と規制を設け、渡航制限を続けていたためだった」
まず、このアジア雑語林で何度も書いてきたように、東京オリンピックと海外旅行の自由化とは直接の関係はない。そして、1964年に海外旅行が自由化されたが、日本人があまり外国に行かなかったのが、「年1回」という制限や「持ち出せる外貨が500ドル」だったからでもない。航空運賃も外国の物価も高すぎて、ほとんどの日本人は海外旅行などできなかったのだ。山口教授は、1964年に、海外旅行の回数制限や外貨持ち出し制限がまったくなければ、海外旅行をする日本人が急増したはずだと考えているのだろうか。外国に行く日本人が少なかったのは、航空運賃があまりに高かったからだ。
長くなった。続きは次回に。