『客室乗務員の誕生』(山口誠 岩波新書) その 3
山口の文章を引用する。
「1965年4月に第1便をヨーロッパに送り出したジャルパックは、1960年代後半を通じて海外旅行商品のトップブランドとして成長し、やがて日本の海外旅行の代名詞にもなった」
「1960年代後半を通じて」という文章の意味がわからない。これがもし「1960年代後半から」という意味なら、明らかに間違いだ。1964年に海外旅行が自由化されても、「海外旅行へ向かう観光客は実に少なかった」と、5行前に書いているからだ。海外旅行客が少ないのに、ジャルパックが「トップブランドに成長」するわけはない。海外旅行客が一気に増えるのは、ジャンボジェット機が就航して団体旅行が安くなる1970年代後半からだ。
上に引用した文章のすぐ後に、こういう文章が続く。
「ジャルパック販売開始から3年後の1968(昭和43)7年7月、日本航空は250人もの客室乗務員を募集した。(中略)全日空をはじめとする国内線の各社も競争して増員したため、桁違いの数の客室乗務員が続々と生まれる時代に突入していった」という文章がある。文意がはっきりしないが、ジャルパックの人気とともに海外旅行者が増えて、客室乗務員の大量採用につながったという意味なら、「それは、どうかなあ」と言っておこう。250人という募集数は正しいのだろうが、それが国際線担当者だという判断は正しいのだろうか。日本航空は国内線と国際線の両方を運航していたのだ。
「国際線」や「海外旅行部門」と聞くと、華々しい世界だと思われがちだが、1970年代でさえ、海外部門は日陰の身だったのである。近畿日本ツーリストの社員だった作家山本一力は、「だらだら仕事をしていたら、海外旅行部門に飛ばすぞ」と先輩に脅されていた。航空会社でも旅行社でも、同じような話を読んだことがある。だから、「1968年の日本航空が、ジャルパックで大儲けして客室乗務員を大量募集」とは、にわかに信じがたいのだ。
この『客室乗務員の誕生』を読んでいて、どうもしっくりしないのは、例えばこういう記述だ。第3章に「『アンノン族』は飛行機に乗らない」という項がある。アンノン族は国鉄の「ディカバー・ジャパン」キャンペーンの影響を受けているので、地方のローカル線には乗っても、飛行機には乗らないという主張なのだが、証拠を示してない。ヒマな大学生なら大阪から北海道に鉄道で行ったかもしれないし、沖縄に船で行ったかもしれないが、仕事を持っている人はそれだけの時間的余裕はない。アンノン族時代に、若者向けの国内線航空券割引スカイメイトができているのだから、「アンノン族は飛行機に乗らない」と断言していいのか。
学者が書く文章だから、元スチュワーデスの思い出話だけではまずいだろう。国際政治や経済事情なども考え併せて論を進めていく必要性は、もちろんわかる。しかし、山口誠教授のほかの本を読んでも、おもしろい物語性がないのだ。読者をひきつける魅力がないのだ。その点、『日本航空一期生』は、元スチュワーデスでのちに作家になり、資料を読んだり、関係者へのインタビューもしていて、ある時代の、日本の航空業界とそこで働いていたスチュワーデスと、初めて飛行機に乗る乗客たちの驚きと喜びが読者に伝わってくるのだ。1516話で書名をあげた2冊、『パン・アメリカン航空物語』と『パン・アメリカン航空と日系二世スチュワーデス』を読むと、アメリカのスチュワーデス黎明期のこともわかる。日本航空にはなかった「エキゾチシズムとスチュワーデス」という観点が、パンナムにはあったこともわかる。
学者しか読まない専門書ではなく、新書に書くなら、もっと構成を考えた方がよかったというわけだ。「あー、そうなのか!」という、読書の喜びが欲しいのだ。
私の感想は、批判ではなく期待なのだ。さまざまな視点で書かれた旅行研究書がもっと世に出ればいい。