『知の旅は終わらない』(立花隆、文春新書) その 2
大学生立花隆のヨーロッパ旅行の話の続きだ。
宿と食事と移動は現地の好意にすがるというこの方法で、現地滞在費はなんとかなる見通しはついた。高額の旅費は、阿部知二(作家)、朱牟田夏雄(東大教授)、清水幾太郎(学習院大学教授)、土門拳(写真家)、中島健蔵(評論家)などが発起人になって寄付を集め、友人との2人分の渡航費100万円はできた。コツコツとアルバイトをして作れる金額ではないから、他人の懐を当てにするしかない。そういう募金活動は、やはり天下の「東大生」というブランドが支えたのだろう。支出のほとんどは交通費だ。1960年2月、ふたりは日本を出発した。約半年の旅になった。この当時の大学探検部や山岳部はもっと高額の資金が必要だったので、企業に協賛や寄付をお願いした。自己資金だけで日本を出た植村直己は、アメリカに到着した時にすでに所持金がわずかだったから、仕事を探すことになったのである。ちなみに、日本からロサンゼルスなでの移民船の運賃は8万円(おそらく最下等)だったそうだ。1964年のことだ。
「飛行機代がとんでもなく高かった。僕が買った東京からロンドンへの切符は一人分の往復で25万円しましたから、現在の貨幣価値にすると10倍の250万円くらいになるでしょう。そのころの大卒初任給はおそらく1万円程度だったはずです」(54ページ)
この記述に誤りがあることはすぐに分かった。当時のヨーロッパ方面の航空運賃が50万円くらいだったと知っているからだ。今だと、「東京・パリの往復運賃」などと言っても、出発日や航空会社や経路や航空券の内容(旅行日数など)によって大きく違ってくるのだが、このアジア雑語林1517話で書いたように、昔の航空運賃には「定価」があったのだ。だから、ある程度の航空運賃は暗記している。
1960年当時、東京からヨーロッパへの航空運賃は、往復46万円だ。「25万円」というのは、ひとりの片道料金だ。
72ページには「飛行機代が二人で50万円で生活費が50万円、最低でも100万円はなんとかしなくてはならない」とある。「飛行機代が二人で50万円」ということは、片道切符2枚分ということで、これは正しいのだが、説明不足だ。この旅の帰路は、アムスデルダムから貨物船に乗って名古屋に着いた。ひと月の船旅だった。
「アフリカに足を延ばすというプランにも未練はありましたが、金がなくて動きが取れない。このあたりが潮時かと話し合い、帰りの切符を買いました。貨物船で、切符はかなり安かったと記憶しています」(101ページ)
1960年2月に出国、10月に帰国した。
さて、ここから私の苦手な算数の話だ。1960年当時の銀行員の初任給は、大卒で1万5000円、高卒で1万1500円だった(第一勧銀)。現在のメインバンクの初任給は20万円ほどだから、約13倍の上昇ということになる。ヨーロッパ往復46万円の13倍は約600万円だ。ヨーロッパ往復の運賃は、初任給の30か月分の金額ということになる。ここ数年の安い航空券なら7~10万円でヨーロッパ便が買えるから、初任給の半分以下だ。海外旅行の重みがいかに変化したのかよくわかる。こういう算数をしておかないと、1960年ごろの若者が「外国に行きたい」と思った時の絶望感は、わからない。
「この旅行をしていた半年間は、人生で最大の勉強をしたんだと思いますね。ことさら何かを勉強するという意識は何もなかったけれど、いつのまにか、日々に膨大な情報を吸収していて、わずか半年間の経験でしたが、この旅行から帰ってきたあと、物事がまったく以前と違って見えてきたことを、いまでもはっきりと覚えています」(102ページ)