1531話 本の話 第15回

 

 韓国の本 その1

 

 司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズの2冊、『韓くに紀行』と『耽羅紀行』(たんらきこう)を読んだ。いままで、この「街道をゆく」シリーズの何冊かを手にしたものの、最後まで読んだのは「台湾」編と「南蛮」編だけだから、韓国を旅した2冊とも最後まで読んだのだのは、私としては上出来なのだが、期待していたほどのおもしろさはなかった。それなのに、いずれこのシリーズの「ニューヨーク」や「モンゴル」も読んでみたいと思っている。たぶん、読みでがある旅行記を求めているのだろう。

 2冊を読んで、付箋を付けたのは、それぞれ1か所だけだった。本筋とはまったく関係のない枝葉末節だ。『韓くに紀行』は1971年の旅を書いている。その当時は、農村に行けば草ぶき屋根の家がいくらでもあった時代だ。私が付箋を張り付けたのは、扶余の宿の朝飯のくだりだ。

 「汁も菜も強烈に甘」かった。同行の韓国人案内人によれば、「歓待のしるしなのです」。砂糖が貴重品だった時代の風習で、とびきりのもてなしなのだが、ソウルや釜山にはむろんとっくの昔になくなっているのに、ここ扶余は田舎だから歓迎のための甘い料理が残っていると説明された。僭越ながら、日本人の私が異論をはさみたくなった。1971年当時なら、農村部ではまだ砂糖は貴重品という意識が強かった。ソウルなど都市部では、砂糖を入れた料理がしだいに普通になり、甘くなったというのが事実のような気がする。つまり、都会では甘い料理がすでに定着したのだ。現在でも、韓国の家庭料理の動画を見ていると、砂糖、オリゴ糖、水あめ、ハチミツを入れた料理はいくらでもある。ここ数十年に登場した赤い料理には、トウガラシとニンニクと砂糖がたっぷりと入っていることが多く、コチュジャンそのものがかなり甘いのだ。韓国の田舎では料理を甘くし、都市では「もう甘くしていない」というのは間違いだと思う。都市部では、特別の機会でなくても料理を甘くできるほどにはぜいたくになってきたということだろうと想像している。

 日本人も同じような歴史をたどった。砂糖を多く入れた料理が「ごちそう」という考えだ。日本では、ここ数十年の間に、西洋料理や中国料理がよく食べられるようになり、砂糖を大量に使う日本料理を口にすることが少なくなったせいで、日本では甘い料理がかつてほど多くはないが、田舎の「昔ながらの料理」には残っている。ただし、中国人は、日本の中国料理を「甘い」と感じる人が多いようだ。

 『耽羅紀行』(たんらきこう)は、1985年の取材旅行をもとに書いた文章だ。付箋を張り付けたのは、伊丹空港でのことだ。ここもまた、本筋とは関係がない部分だ。韓国に出発するために空港に集まった在日韓国人の同行者たちが、空港で買い物をしていた。同行者のひとりが、「バナナです」と解説した。韓国人への日本土産はバナナなのだという。そういう事情があったから、空港でバナナを売っていたということか。

 韓国では、外貨節約のために、基本的にはバナナは輸入禁止だったが、台湾が韓国の船を買ったので、そのお返しに韓国は台湾のバナナを買うことになったことで市場に出回ったというのだが、きれいなのは、バナナ1本が1500ウォン(約300円)もするという。韓国とバナナといえば、ドラマ「応答せよ1988」では、1988年のソウルで真っ黒になったバナナが3本で2000ウォンだったという話をすでに書いた。エストニア人とバナナの話は、1305話に書いた。

 1970年代なら、台湾に行く人は土産にリンゴを買っていった。私も頼まれてリンゴ5個を台湾人に届けたことがある。台北松山空港に日本からの便が着くと、リンゴ箱をカートに乗せた旅行者を見かけたものだ。台湾への日本土産の定番はほかに、救心など日本時代から有名だった医薬品があった。同じ時代の羽田では、ハワイ帰りの新婚客のなかには、箱詰めパイナップルを土産にお持ち帰る人もいた。日本にも韓国にも熱帯の果物はあまりなく、台湾には寒い土地でできる果物がなかった。そういう時代があった。そういえば、1990年代までのタイでは、日本の柿が高かった。リンゴは、ニュージーランドからの輸入品が安かった。

 『旅行みやげの世界史』といった本を読みたい。スコッチウィスキー「ジョニー・ウォーカー」やタバコ「555」(いずれもイギリス製品)をある国に持ち込めば、すぐにカネに変わった時代の話も含めて、だれか書かないかなあ。