1532話 本の話 第16回

 

 韓国の本 その2

 

 『韓くに紀行』に、1971年取材時のソウルの写真が載っている。ソウルの1970年代も80年代も私は実際に見ているのだが、写真は一切撮らず、記憶も断片的だから、当時の風景写真を見たくなった。

 1950~60年代のソウルをカラー写真で見ることができる本は、このコラムでもたびたび紹介してきた『発掘 カラー写真 1950・1960年代鉄道原風景 海外編 』(ジェイ・ウォーリー・ヒオギンズ、JTB、2006)だ。アマゾンで定価よりもだいぶ安く買えるので、鉄道ファンだけでなくアジア現代史に興味がある人にもおすすめしたい。

 戦後50年ほどの韓国の姿を知りたくなった。その風景を見たくなった。1970年代に入ってからだが、韓国にちょっと興味を持ち神保町で資料探しをしたのだが、そのほとんどは政治向きの内容で、おもしろくなかった。

 そうだった。あの時代は、「韓国」という語の印象は、左翼・進歩派からは、アメリカ帝国主義をバックにする反共の国と思われていた。日本の右翼や自民党やヤクザと韓国政府との深い関係、金大中事件コリアゲート事件、そしてキム・ヒョンウク失踪事件などの暗黒事件などを知ると、韓国関係で利益を得ているもの以外、支持を表明する気にはなれない国だった。一方、朝鮮民主主義人民共和国に関しては、その名称とは裏腹に「民主主義国」ではないことは中学生の私でもわかっていたが、その詳細は日本には伝わらなかった。だから、「朝鮮」という語は差別語であると同時に、反米反帝国主義を唱える左翼からは支持されていた国と思われていた。したがって、当時の韓国関連本は、民主主義を弾圧する独裁国家韓国に関する本がほとんどだった。

 言語と政治という話になると、「赤旗」のピョンヤン特派員だった萩原遼(1937~2017)の若き日のことを思いだす。高校生時代から朝鮮半島事情に興味を持っていた彼は、その当時、日本で唯一朝鮮語を学べる大学だった天理大学を受験したが、不合格になった。成績優秀な高校生が試験に落ちるわけはないと調べてみると、当時の天理大学朝鮮語科は、韓国・朝鮮人を取り締まる警察関係者の教育機関だとわかった。だから、高校生時代にすでに共産党員になっていた萩原は、入学不可となったのである。大学で朝鮮語を学ぶことをあきらめて、どこかほかに学習機関はないかと調べたら私塾のようなものがあることを知った。早速行ってみると、そこは朝鮮総連教育機関だった。北朝鮮に帰国する朝鮮人の夫と同行する日本人妻の朝鮮語教室だった。日本人の萩原は、今度は官憲のスパイを疑われて入学を拒否された。大阪外国語大学朝鮮語科が開設された1963年、萩原は第1期生として入学した。萩原はもう26歳になっていた。韓国・朝鮮語ラジオ講座テレビ講座もなく街に教室もなかったという時代だ。

 朝鮮半島の南は、腐敗した政治の国、北は地上の楽園と信じる日本人がある程度いた時代だ。韓国も南ベトナムも(そしてタイ)など腐敗した反共親米国に対する批判は正しいが、北朝鮮には甘すぎた。

 世間の目は、1988年のソウル・オリンピックの時代になるまで、朝鮮半島の言語を学ぶものは、「北」か「南」かの政治姿勢を明確にするよう求められた。私は、1970年代にハングルをちょっと学んだことがあり、料理の名前ならある程度は読めるようになったのだが、それゆえに外国の韓国料理店では、メニューが読める私は在日韓国人だと思われていた。日本人がハングルを学ぶわけはないと思われたようだ。中国語はいまでも政治的な言語で、用いる文字によって中国派か台湾-香港派かがわかる。私が中国語の教科書を初めて買ったときは、まだ「同志」という呼びかけの語が生きていた。それが嫌で、私は台湾人に教師をお願いした。

 1988年のソウル・オリンピック便乗本が多く出て、政治問題以外をテーマとする韓国本も出るようになったが、それ以前の韓国生活や都市や農村の風景がよくわかる本の記憶がない。だから、ウチの書棚にも写真が多い本はない。そこでネット書店で探し出したのが、『実物大の朝鮮・韓国報道50年』(前川惠司、公益財団法人新聞通信調査会、2020)だ。著者は1946年生まれ。フリーカメラマンから朝日新聞社に入り、ソウル特派員などを経て2006年退職した。元朝日の記者が書いた韓国本だからといって、ネトウヨが大喜びしそうな内容の本ではない。「言うべきことは、ちゃんと言うぞ」という本だ。