1536話 本の話 第20回

 

 『おにぎりの文化史』(横浜市歴史博物館) その2

 

 インディカ米はパサパサパラパラだから、握れないという解説は間違いだ。インディカ米にもウルチとモチがあり、インディカでもモチ種を使えば、おにぎりができる。タイ東北部にカーオ・チーという焼きおにぎりがある。文字通り訳すと「飯・焼く」だから、日本の「焼き飯」よりも正しい表現だ。もち米の飯を円盤状にして、網で焼く。あるいは、丸くしたり、五平餅風に小判状もある。炭火で焼きながら、ときどきカピ(小エビの発酵ペースト)を混ぜた溶きタマゴを表面に塗りながら、焼いていく。香ばしく、うまい。もしかすると、この食べ物を日本で最初に紹介したのは私かもしれないが、どの本に書いたのか思いだせない。路上で見かけた料理だから、特別珍しいわけではない。このサイトでは、「カオジー」として紹介されている。ほかにも、ネット上にいくらでも画像がある。

 「インディカ米はサパサパラパラ」と言われ続けているが、「ウルチ米が」と限定しても、それもちょっと違う。日本人が好きなもっちりしたコメと比べればたしかにパラパラなのだが、タイを例にすれば、タイ人に人気のカーオ・ホン・マリ(ジャスミン米)という高級品種のコメを炊飯器で炊くと、ふっくらしていて、パラパラではない。「タイ米はまずい」という悪評が立ったのが1993年の米騒動だったが、あのころとはコメの品質もかわり、炊飯器で炊いた飯が主流になり、タイで炊きたてのタイ米を食べれば、タイ米に対する感想もだいぶ変わると思う。

 いままで、このアジア雑語林では、外国の握り飯についてしばしばコラムを書いてきた。

 中国や朝鮮のおにぎりに関しては、621話(2014-08-21)で書いている。中国人が書いたエッセイも紹介しているから、もし「中国人はおにぎりを食べるのか?」という疑問を持って調べれば、横浜市歴史博物館のスタッフもわかったはずなのに。台湾のおにぎりの話は、しばらくあとで触れる。

 イタリアはシチリアのおにぎりについては、写真入りで1109話(2018-02-26)で紹介している。そして最近のことだが、インドとマレーシアのおにぎりの話は、1470話(2020-09-10)で書いた。わざわざ書くこともないと思って触れなかったが、東アジアや東南アジアのコンビニにはおにぎりがある。「パラパラの米だから、おにぎりはできない」という地域のコンビニのおにぎりは、日本から輸入したコメを使っているというのだろうか。今は「現地産こしひかり」というのもあるのだ。コンビニのおにぎりの歴史は浅いが、それよりもずっと古いものもある。この本の著者たちが「おにぎり」と認めるかどうかわからないが、コメをバナナの葉で包んで茹でたナシ・ロントンというものがインドネシアにある。台湾などのちまきも、竹の皮で包んだコメを蒸したり茹でたりしたものだ。

 インディカ種のウルチ米を湯取り法(ゆでて、蒸し焼きにする)で炊くと、パラパラになる。「だから、おにぎりにできない」と考えがちだが、実は、そういうコメを食べている人は、毎食飯を握っているのだ。コメを手食する人たちの食べ方をじっくり観察していれば、私の言うことがよくわかるはずだ。パラパラの飯を手で食べるにはどうするか。手食経験のない人は、飯を手ですくい、その手を口元に持っていって犬のように食べようとしがちだが、そんな食べ方をすればその辺に米粒が散らばる。うまくたべるには、飯に汁などで湿り気を与えてこねて、小さめのすし1個分くらいに握り、そのかたまりを右手親指ではじくようにして口に放り込む。こうすれば、うまく口に入る。つまり、ひと口ごとに、おにぎりを作っているのだ。

 パラパラの飯を食べている人たちは、カレーのように汁をかけて食べる。汁がない場合は、水を振りかけることもある。モチ米を主食にしているタイ北部・東北部やラオスの人たちは、汁かけ飯にはしないが、ひと口大に握った飯に煮汁や炒め物などの汁をつけて口に運ぶことがある。ここでも、ひと口ごとに、飯を握っているのである。

 ということは、手で米の飯を食べている人たちは、いつも飯を握っているということになる。南・東南アジアの食文化を少しでも知っていれば、飯を握るのは日本人だけという本は書かなかったはずだ。握り飯の種類に関しても、食べられている量に関しても、日本は抜きんでているのだが、だからと言って、日本の事情だけを調べていればいいというわけではない。世界的な視野がないというあたりが、日本史や民俗学研究者の弱いところだ。もちろん、広い視野を持った学者も少なからずいるから、『食の考古学』(佐原真、東京大学出版会、1996)を注文した。