『ポケット版 台湾グルメ350品! 食べ歩き事典』(光瀬憲子) その8
話はまだ続く。
◆陽春麺(ヤンチュンミェン、シンプルな具なし麺)・・・初めて台湾に行ったときは、少ない旅費で食い伸ばそうと考えていたから、安いものしか食べていない。魯肉飯や油飯そして陽春麺はよく食べた。魯肉飯と油飯は「うまい」と思って食べていた。かけそば、あるいは素ラーメンという感じの陽春麺は「可もなく不可もなく」という感じで、安さだけで食べていた。考えてみれば、台湾で麺料理を食べて、「これはうまい」と思ったものは記憶にない。スープじゃなくてお湯か?という汁そばやのびたうどんのような麺。焼きビーフンは比較的よく食べたが、自分で作った方がうまいと思った。台湾の麺料理は、ネットでは日本人にはおおむね好評のようだが、多くの日本人旅行者がホントに「うまい!」と思って食べているのかなあ。台湾の麺類に対して厳しいのは、日本とタイで麺料理を食べなれているせいだろうか。
◆鍋貼(グォティエ、焼き餃子)・・・日本以外で、もっとも焼き餃子を食べられる国は台湾である。私は、台湾は国だと思っているから、「ふたつの中国」は認めていない。ひとつの中国と、ひとつの台湾があるのだ。ひとつの独立した香港もあればいいのだが・・・。
それはさておき、この文庫に、気になる記述がある。
「日本でおなじみの焼き餃子にもっとも近いものは、台湾の鍋貼である。餃子として分類されていないので、水餃子や蒸し餃子を扱っている店では鍋貼を出さない。鍋貼は独立した専門店がある」
鍋貼は、「鍋に張り付けるようにして焼く」といったような意味合いを持つ語で、料理名としては鍋貼餃子の省略形だから、「鍋貼は餃子として分類されていない」というのは変だ。そして、鍋貼と水餃子は同じ店では出さないと書いているが、台湾最大の餃子チェーン店「八方雲集」では、HPを見てわかるように、鍋貼も水餃子もある。こういう店は、街にいくらでもあったと記憶している。ネットで探しても、阿財鍋貼水餃店は、店名からして両方ありますよと言っている。
「中国では水餃子が普通だから、焼き餃子は冷めた水餃子を温め直したものだ」と説明されることが多いが、中華鍋で温め直したのは煎餃で家庭の料理。専用の平らな鍋で生の餃子を焼いたのが鍋貼で、料理店の料理だというのが私の解釈だ。もちろん、明確な区別があるわけではないが・・・。日本には餃子調理研究者はいくらでもいるが、餃子歴史研究者は極めて少ない。
台北で餃子を食べ歩いた経験で言うと、「餃子の店に飯はない」というきまりはゆるぎない鉄則であるようだ。例外は、日本料理店や居酒屋だろう。
台湾各地にある餃子チェーンの八方雲集は、餃子と台湾が大好きな日本人は、「日本に進出してくれればなあ」と望んでいるはずだが、最大のネックは、注文を受けて焼くのではなく、まとめ焼きだということだ。大混雑しているときは熱い焼き餃子を食べることができるが、ヒマな時間だと生ぬるい餃子になる。日本には進出していないが、香港には店舗がある。アジア戦略を始めれば、焼き餃子が世界に広まるかもしれない。
◆九層塔蛋(ジョウチェンターダン、台湾バジルの卵焼き)・・・九層塔はハーブだ。学名のOcimum basilicum、英語名をSweet basilということで画像検索すると、イタリア料理でよく使うバジリコが出てくることが多いが、あのバジルとは全く違う。スウィート・バジルには変種が多く、タイでバイ・ホーラパーと呼んでいるものが、台湾の九層塔だ。コリアンダーよりももっと強烈な臭気があり、私の苦手なハーブだ。においの強いスパイスや香辛料と一緒に使うタイ料理でも臭いのに、台湾では塩や醤油だけの料理に加えるので、耐えられない。ある時に注文した焼きそばにこのハーブが入っていて、ひと口で店を出たことがあった。おそらく、この香草がまな板か野菜のかけらにでもついていたのだろうが、それだけでも臭かった。
炒孔雀蛤(ツァオコンチュハー、ムール貝炒め・・・の説明を読んでいたら、この料理には九層塔を使うとある。実は、タイ料理でも貝の炒め物にこのハーブを入れるので、私の苦手な料理になっている。クセの強いハーブなので、魚貝類に使って生臭さを取ろうという考えなのだろう。
◆呉郭魚(ウーグォユー、ティラピア)・・・「臭みがあるのでたっぷりの生姜を使って・・・」、「小骨があって・・・」と、ティラピアを紹介しているが、別の魚と勘違いしているのではないか。ウィキペディアには、「ティラピアの肉質は臭みもなく非常に美味で」と書いてある。タイに似た魚なので、ニシンのような小骨もない。私はケニアで初めて食べ、タイで何度も食べているが、カリカリに揚げたり、スパイスが効いたタレをかけるうまい。日本人がなぜ食べたがらないのか不思議な魚だ。
*13日午後11時過ぎにかなり強い地震があった。本棚の本は無事だったが、将棋崩しの駒のように床に積んだ本の山は、やはりちょっと崩れた。もう何年も見ていない本も発見できて、再読しようと山の上に積みなおした。