1552話 本の話 第36回

 

『ウンコはどこから来て、どこへ行くのか』(湯澤規子、ちくま新書、2020)をめぐって その3

 

 『ウンコはどこから来て・・・・』の「参考文献」として数多くの資料を挙げているが、日本以外の事情を考える上で必読の第一級の資料であり、簡単に手に入る本が抜けている。「糞尿の行方は、アジアではどうか?」という疑問がもしあれば、当然手に取るのが、アジア経済研究所の関係者たちが執筆した『アジアの厠考』(大野盛雄・小島麗逸編著、勁草書房、1994)だ。この本を読めば、アジアのトイレや、糞尿処理の例もわかる。湯澤氏は、西洋との比較は少しやったが、日本以外のアジアは完全に無視したのだ。

 『アジア厠考』はウチにあるはずなのに見つからず、アマゾンで買い、内容を再確認して今この文章を書き、本を棚に入れようとしたら、あらら、あるじゃないか、ちゃんと。今なら、名著が格安で買えるから、お勧めします。156円だよ。 

 歴史や農業のド素人の感想だが、こういうことかもしれない。日本でも西洋でも下肥を使ってはいたが、西洋では家畜の糞尿がたやすく手に入るので、下肥の比重が日本ほど高くなかった。湿潤な熱帯アジアでは、山野草がいくらでも手に入るので、肥料を使って野菜栽培をしようという発想がなかったのかもしれない。水稲は、肥料がなくても育つからだ。近代に入り、西洋では化学肥料と水洗便所の発達により、ヒトの糞尿はより処理すべきものになったということではないか。

 さて、話の方向を少し変える。この新書の66ページに、こういう文章がある。

 「糞尿は西欧社会において『隠す』ものであり、『廃棄』するものであり、『危険物』にほかならなかった」

 19世紀のヨーロッパ都市生活を少しでも知っていれば、「ウソつけ!」と言いたくなるだろう。パリのような大都市では、窓からおまるの汚物を捨てるので、道路は汚物だらけだったというのは有名な話だ。「廃棄」はしても「隠す」気などないのは明らかだ。

 この新書を読み続けると、202ページに、「一九世紀パリのウンコと怪物の腸」という小項目に、「住民は生ごみ屎尿を無秩序に通りに投げ捨てるため・・・」と、路上の汚染と臭気を書いている。66ページには、日本に来た西洋人は、糞尿の耐え難い臭気の日本に悩まされていたと書いているのだから、話が違う。

 西洋には近年まで家庭にトイレというものがなかった。オマルや室内便器を使っていたのだ。邸宅なら、クローゼットに室内便器を置いておくので、そこがトイレになるのだが、狭い家なら室内にいつも糞尿が入った壺が置いてあるということだ。だから、人間と糞尿との距離は西洋の方が近いともいえる。