1562話 モノを知らない私です その2

 

 関心分野が狭く、知らない事柄がいくらでもあるというのは、へそ曲がりのせいだと思っていたのだが、どうも違うようだ。本当はゴルフをやりたいのに、「なんだ、あんなもの! くだらん」とヘソを曲げて、同世代の男たちが夢中になっている楽しみにケチをつけたくなるというのではなく、本当にゴルフに興味がないのだ。野球もパチンコも、本当に興味がないから知識もないのだ。野球に興味がないのに、NHKTVの「球辞苑」を毎週見ているのは、多分、言葉の野球を楽しんでいるからかもしれない。別の言い方をすれば、トークショーを楽しんでいるのだ。まったく興味のない国の話でも、見事な文章で表現されていたら、楽しく読んでしまうというようなものだ。

 自動車そのものに興味はないが、のちに『東南アジアの三輪車』としてまとまる本の調べものをしているときは、当時大手町にあった自動車図書館に通い、戦前から1960年代までの自動車資料を読みあさった。「モーターファン」や「モーターマガジン」といった市販の自動車雑誌ではなく、日本自動車工業会などが発行している専門雑誌や内部資料を読み、コピーを取った。つまり、市販の自動車雑誌が送り出す情報には興味はないが、モノによっては興味深い記事がいくらでも見つかったということだ。1950年代に日本の自動車業界を挙げて取り組んだ東南アジア走破隊の記録は、じつに楽しく読んだ。「ベトナムの道路は、日本の道路よりもよっぽどいい」という記述に出会うと、「植民地と道路事情」というテーマに思いをはせる。

 例えば、こんなことを思い出す。戦後海外旅行史の資料として石原裕次郎の映画を多く見た。「憎いあンちくしょう」(1963)には、ジャガーで突っ走るシーンがあるが、未舗装の土ほこり道路だ。あの当時、高級車を手に入れる資力はなんとかあったが、道路整備にはまだ手が回らなかった。そういう時代だった。     

 自動車で思い出したのは、1950年代の日本の自動車メーカーの悲願は、箱根の坂を登れる車を作ることだった。やっと箱根の坂を登れるようになったトヨペットクラウンは、無謀なことにアメリカへの輸出を始めたのだが、高速性能に著しく欠けていたために失敗した。日本には、まだ高速道路がなかったのだ。

 そういえば、アーサー・ヘイリー自動車産業小説“Wheels”(1971.日本題『自動車』)には、日本製の自動車はいかに出来が悪いかという描写がある。1960年代の取材ならそういう評価が日本車に下されていたということだ。

 なぜ私が自動車業界小説を手にしたかというと、まず、ホテル業界の小説『ホテル』(1970)を読み、空港の仕組みを知りたくて『大空港』を読み、そして『自動車』を読んだというわけだ。もしかして、『マルカムX自伝』や『ルーツ』を書いたアレックス・ヘイリーと勘違いして買ったかもしれないという可能性がないわけではないが、たとえ間違って本を買ったとしても、読めばすぐに気がついたはずだ。

 『東南アジアの三輪車』の感想に、「著者が機械に疎いのが残念」と書いた人が何人かいた。内燃機関のことなど何ひとつ知らないライターが、機械の勉強などせずに書こうと試みたのがその本だから、私は気にしていない。エンジンの全貌を頭に入れるよりも、三輪自動車の歴史や地理的な広がりなど、調べるべきことはいくらでもあると思っていた。機械のことは機械に詳しい人が書けばいいと思っていたが、未だに機械に詳しい人が書いた三輪自動車の本はない。自動車ファンとかマニアという人は、世界の自動車産業に興味も知識もない人たちのことだ。自動車文化としてドイツを語る人はいるが、同じように中国や韓国やネパールの自動車文化を語る人を、私は知らない。機械に詳しい人は、機械としての自動車しか語らない。ブランド名とスペックしか興味がないと言ったら、言い過ぎだろうか。