1574話 カラスの十代 その7

 

 高校時代は、本と映画の日々だった。大好きな音楽と深くつきあうのは、諦めた。レコードは高く、コンサートはもっと高い。高いレコードを買うくらいなら、古本屋のワゴンセールで、1冊30円か50円の文庫や新書を山ほど買った方がいい。だから、音楽はひたすらラジオを聴くだけだった。R&Bとジャズを好んで聞いていた。ロックやフォークにはほとんど関心がなかった。級友たちと音楽の話をすることがたまにあったが、長くなりそうなのでその話は別の機会にしよう。

 高校時代、神保町のほか上野にもよく行った。博物館のような雑多な情報に満ちている場所に興味を持ったのだが、東京国立博物館(通称、東博)は高校時代に初めて行き、結局それが最後になっている。私は博物館は好きだか、美術品には全く興味がない。東博は、日本と東洋の美術品を展示している場所だと気がつき、以後足を運ぶことはなかった。あの時の感想をありていに書けば、「えらそーなモンばっかり、ありがたそうに飾りやがって」である。美術嫌いでも、時には都立美術館に行ったことはあるが、東博には1度行っただけ、国立西洋美術館には行ったことがない。MUSEUMという外国語は、美術館の意味もあるから、外国旅行中にMUSEUMに行くときは注意している。私は芸術に理解も関心もはないのだ。

 東博の近くにある国立科学博物館(通称、科博)は、科学嫌いなクセに、すっかり気に入り、博物館友の会のような会の会員だったこともある。あのころのことはよくは覚えていないのだが、多分、イネとかムギといった食べられる植物に関する講演会があって、会員登録したのだと思う。20代になってからは、それほどしばしば訪れるわけではないが、上野に行ったときは、特別展の内容によってはときどき立ち寄る。科学といっても自然科学だから、私には近寄りやすいのだろう。先日放送した「探検! 巨大ミュージアムの舞台裏~国立科学博物館~」(NHKBS)は、もちろん興味深く見た。

 高校時代と上野の博物館の話を書いていたら、その当時のことを少しずつ思い出してきた。私の高校時代は1960年代末から70年代初めなのだが、別の言い方をすれば、終戦から二十数年後ということになる。なぜそういうことを言い出したかと言えば、京成上野駅脇の階段には、ときどき傷痍軍人が立っていたという記憶があるからだ。白衣、アコーディオンと松葉杖。「戦後間もなく」の面影を残している上野の地下通路は、かなり後までそのままだったが、多分、もう消えただろう。のちに、ニセモノの傷痍軍人もいたという話を聞いた。

 上野と言えば、国鉄上野駅構内の両替所のことも思い出した。1970年代の話だ。駅構内に「両替所」があるという話を旅仲間がしていた。赤坂には「外貨両替 Exchange」という看板を掲げた宝飾店があることは知っていた。日本も外国人客を意識したのかなというと、「日本円から日本円への両替だよ」という。わけのわからない話なので、教えてもらった場所に行ってみたら、本当にそうだった。日本円の高額紙幣を、手数料を取って両替している窓口が駅構内にあったのだ。

 展示品が気にいらなかった東博だが、「建物はおもしろかった」という記憶がある。20世紀初めか、1930年代の修復か、時代はよくわからないが、博物館内部のインテリアが強く記憶に残っている。とりわけ、トイレだ。床は時代がかった白いタイルだったような気がする。窓枠の金属は、鋳物だったかもしれない。ほとんど入場者がいない初夏で、古風なインテリアのトイレに、強い陽がさしていた。個室のドアも古風で、味のあるものだった。今、ネットで画像検索しても昔のトイレの姿は見つからない。当然、衛生的で近代的なトイレにリフォームしたのだろう。

 理系が苦手でも、科博によく行ったのは植物に興味があったせいで、理系の専門書でも読んでみようと思い、時に楽しんで読むのは、植物学と農業と、そして建築だ。東博に行っても、印象に残ったのは建築だったというのが、のちの私の趣味を表しているようだ。

 まったく興味のなかった東博に初めて注目したのは、建築の勉強をしていて、帝冠様式の例として、東博が語られたからだ。

 上野に出たら、帰りにアメ横に寄るというのがきまりになり、バナナのたたき売りを眺め、食材探検をして、御徒町の韓国朝鮮街でキムチなどを買い、匂いを気にしながら電車に乗るのである。池之端を散歩して根津か本郷へ・・・というのは、高校を卒業してからの趣味だ。