1575話 カラスの十代 その8

 

 いつか外国旅行をしようと思っていたから、受験英語の授業は進級卒業に必要な最低限のお付き合いにとどめ、あとは自分で勉強していた。友人が教会の英語クラスに通っているという話を聞き、私もしばらく通った。本当のことを言うと、英語に興味があったのではなく、大好きな人がその教会の英語クラスに通っていると聞き、一緒に行きたくなったのだから、英語は方便だ。私はそれほど勉強熱心な少年ではない。

 英会話サークルは高校の授業とは違い、おそらく普通の英会話学校の授業とも違っていたはずだ。牧師の自宅で開かれた英語教室は、生徒が数分の話を英語でして、それを牧師が聞く。話の内容をよく理解できないとか、明らかに文法や発音が誤っていれば訂正しつつ、話の内容についていろいろ質問したりする。話す内容は、日本昔話でも学校生活のこまごました体験でも、話題は何でもよかったが、そういう話はアメリカ人牧師にとっては興味ある話題だったようだ。生徒は1週間かけてお話を英語で考えるのだが、ノートに文章を書くようなことはしない。授業で作文を読んではつまらないのだ。あくまで、「お話をする」のである。こうして、数人の高校生と毎週1時間ほど英語で話をしていた。高校の英語の授業はひどくつまらなかったので、まるでやる気がなかった。だから試験をやれば、いつも50点前後だった。

 アメリカ人牧師の授業は無料なのはありがたいが、回を重ねるにつれ教会行事へのお誘いが強くなり、それは牧師の本来の目的であるとはわかっているが、「日曜礼拝の誘いは、もうこれ以上、断れないな」と感じたところで、英語教室から身を引いた。会話の訓練はそれだけで、あとは米軍放送FEN(1997年以降はAFN)を聞いていたり、英語の歌を翻訳したり、旅行会話の本を読んだり、易しい英語の本を読んだりしていたが、いずれも「勉強をしていた」のではなく、ただ楽しくひとり遊びをしていただけだ。

 ほかの科目も進級・卒業に必要な最低限のお付き合いだけで、自分が知りたいことは自分で学ぶという態度が自然に身についた。だから、多少は雑学を身につけていても、私にはあらゆる分野の基礎学力というものがないのだ。そのあたりが、理系にも強い天下のクラマエ師こと蔵前仁一さんや田中真知さんといった教養人とは大いに異なるところだ。

 とにかく、ひどい成績だった。それなのにと言うべきか、受験校での学習意欲のない生徒だからというべきか、3年生のある日、「ちょっと話があるから、教員室に来い」と担任が言った。

 担任は机の引き出しをあけて、書類を取り出した。英語の書類だ。

 「インドの大学に行く気はあるか? 留学生を募集する書類がウチの学校にも来て、もし興味があれば、手続きをするが・・・、どうだ?」ということだった。その当時はまだインドにはまるで興味がなく、外国に行きたいとは思えども、まだその覚悟はなく、インドで勉強したいということも特にないので、留学生試験とか費用といった細かい話はいっさい聞かないまま、教師の提案に首を振った。「外国」は、まだ夢の先の遠いところにあった。外国は、「はい、試験を受けてみます」などと簡単に言える位置にはなかった。私にとってだけでなく、あのころのほとんどの日本人には、外国はまだ「遥か遠くにある幻のような存在」だったのである。

 担任と深く話したことはないが、私はまじめに受験勉強をして、その結果立派なサラリーマンになるような道に背を向けていることがわかっていたようだ。「こいつには、インドなんかお似合いかもしれない」と思ったのかもしれない。今から考えると、「なかなかいい読みでしたね」と言いたくなる勘だ。

 高校を卒業したのは1971年で、2年後の73年にやっと日本を出ることができた。留学生試験の紹介があってからたった2年後に、私は現実のインドにいた。1ドルが360円の時代が終わったばかりだが、300円でも外国の物価は高かったが、自費の渡航である。1度行ってみれば、外国はすぐ近くにあるとわかって、それ以降外国通いが始まり、現在に至る。