1576話 カラスの十代 その9

 

 高校の英語の授業のことを書いていたら、いろいろ思い出すことがあって、もっと書きたくなった。

 私が嫌っていた定年直前の英語教師は、受験雑誌では有名人だったらしいが、その手の雑誌などまったく見ない私は、教師の評判などまったく知らない。この教師には必殺技がある。授業中、だれてきたなと感じたら、「これは、3年前の早稲田の問題で・・」などというと、ざわついていた教室内がたちまち静かになり、生徒はノートに問題と解答を書き写していた。

 この教師が失笑を買った授業があった。「次の5つの単語の下線部分の発音が、ひとつだけ違うものを指摘せよ」というものだ。

 教師は黒板に単語を5つ書き、それぞれの発音を教えようとするのだが、もともと典型的なジャパニーズ・イングリッシュ発音に加えて、千葉・茨城訛りが強く、エとイがはっきりしない。江戸と井戸が同じになるようなものだが、その教師が英語の発音を丁寧に指導するから、私のような悪ガキは「全部おんなじ発音じゃねえか」などとヤジを飛ばすから、目を付けられる。この教師は私を無視し、けっして指名しなかった。「はい、回答は?」と生徒を指名し、回答がなければ「その後ろ」と指していくのだが、私の前では、「ひとりおいて、その後ろ」などと私を飛ばす。英語の授業では「出席」にはなっていても、存在しない生徒だった。だからといって、傷つくようなことはない。私もこの教師を「受験英語の世界にしか生きていない存在」だと思っていたのだから。

 高校3年生の夏休み前、受験英語の達人という老教師は、いままでのご褒美なのだろうが、定年となるその年に、生まれて初めて外国に行く栄誉が与えられた。県内の高校生が参加するアメリカでの英語キャンプの団長として、9月半ばまでアメリカに行くというのだ。

 夏休みが終わりちょっとたち、9月下旬になって、老教師が帰国した。その最初の授業では、今までかつて一度もなかったことだが、“アメリカン”の雰囲気で、ニコニコしながらラジカセ片手に教室に入ってきた。その変貌ぶりに、教室内爆笑。アメリカで受けたカルチャーショックを、体全体で表現しているが、アロハシャツを着て授業をやるというとことまではいかないのが残念だ。

 「ハワイでねえ・・・」と、アメリカ話を始めた。

 「ハワイでの入国審査で、『これからどこに行くのか』と聞かれたから、『シアトル』と言ったんだけど、これが通じない。『シーアトル』とか『シアートル』とか、いろいろ発音してみたが、まったく通じないんだねえ。で、航空券の“Seatlle”の文字をみせて『ここ』って言って解決。次の質問は、入国カードを見ながら、『職業欄には教師って書いてあるが、何を教えているのか?』という質問そのものは、2度聞き返してわかったんだけど、まさか『英語です』とは言えないから、『日本語です』とウソをついたんだ」

 入国審査の列では、後ろに高校生たちが並んでいたはずで、ベテラン英語教師の団長の英語力のひどさを見せつけることになったようだ。受験英語の教育では日本有数でも、会話となると高校生以下だという現実を思い知らされたのだろう。その後のアメリカ生活でも、自分の英語が使い物にならないと痛感したことだろう。

 「だから、これから、会話の授業を少しやる。生の英語の発音を聞くということにして、これだ!」とラジカセを指さした。帰国直後のひと月だけは、受験英語を忘れさせる「生の英語を聞く授業」だった。

 それが、悲しくも戦前に教育を受けた英語教師の姿だった。1970年に定年を迎えたということは、1910年代の生まれだ。終戦時は35歳だ。

 「英語教師は、英語をしゃべれないものだ」と、小田実が『何でも見てやろう』で書いている。英語教師は、街の英会話教室の教師とは違うんだという自負、あるいは居直りがあった。英会話は受験には関係ない。英語教育は街のお稽古事とは違うという認識があったのだろうし、英語をしゃべる日本人を、進駐軍の通訳に見立てた「英語使い」と軽蔑していた。英語をぺらぺらしゃべる「タカが通訳」と見下し、重要なのは読解だというのが、幕末以来の外国語に対する日本人の考え方だ。

 この教師のアメリカ話で今でも覚えているのは、参加者の女子校生が入院したという話だ。キャンプ場のトイレ(またしても、トイレの話で恐縮だが)は、もちろん男女別にはなっているが、部屋の床にただ便器だけがいくつも並んでいるだけで、ドアはもちろん壁もない。ただ、便器だけ。「こんなトイレじゃ無理!」と我慢しているうちに病気になって入院・・ということだったらしい。病名は言わなかったが、膀胱炎や腎盂腎炎などだろう。中国のトイレには壁もドアもないという話を聞いたのは、それから数年後だった。

付記:1970年当時の教員の定年が60歳だと思い込んで上の文章を書いたが、調べてみれば、当時の教員の定年は55歳だったかもしれない。もしそうなら、1970年に定年となった英語教師は1915年頃の生まれということになるらしい。終戦時は30歳ということになるようだ。