1578話 カラスの十代 その11

 

 あれは、1970年の、たぶん晩秋だったと思う。高校3年生のときだ。大きな事件が重なった。

 大阪の万博には出かけたし、このコラムでは万博にまつわる話を何度も書いているが、万博と高校はまったく関係はない。修学旅行は3年生の1970年ではなく、2年生の69年だったが、ついでだからちょっと書いておこう(実をいうと、修学旅行は1970年だと思い文章を書いているうちに、「あれっ、2年生の69年だぞ」と気がついたが、削除するのはもったいないので、この3行を加筆した)。

 中学と同じように、高校でも関西に行ったが、幸か不幸か事件など起こらず、大した記憶もない。こうして文章を書いていると、少しずつ記憶が蘇ってきた。「新幹線で行く修学旅行なんか、旅じゃない、つまらん。参加しない」と、いかにも前川が言いだしそうなことを教師に言ったのは、まさにこの私で、みんなと同じように修学旅行を楽しみたいという気持ちはなかった。夏休みに、すでに東北地方ひとり旅を楽しんでいたから、「ぞろぞろ歩く修学旅行なんざ、ごめんだね」と、自分なりの「旅の思想」があった。

 修学旅行は教育です、今は新幹線利用がもっとも安く合理的ですと、担任は気弱にさとしはじめ、それが哀れで、やはり気弱な生徒である私は渋々納得したフリをしたのだが、あれから50年たった今でも、やはり自分の主張を通し、修学旅行不参加を貫いたほうがよかったのかもしれないと思う。が、しかし、そういう態度をとると担任を苦しめることになるという心苦しさもあった。いま、修学旅行と新幹線の関係を調べると、ウィキペディアに「1970年(昭和45年)3月16日 東海道新幹線修学旅行列車を初設定」とある。ということは、1969年の時点では、新幹線はまだ修学旅行専用編成はなかったということになるのだが、このあたりのややこしいことは、深追いしない。

 高校の修学旅行は、教師から詳しい話を聞くと「ぞろぞろ歩く団体旅行」ではなかった。全行程団体行動というのは、中学の修学旅行が最後で、高校の修学旅行は昼中は生徒の自由行動だったから、変則的団体旅行だ。生徒は、一応の行動計画書を担任に提出するのだが、宿を出てしまったらこっちのものだ。全生徒の行動の把握などできないのだから、実質上、どこに行っても何をやっても自由という旅行だった。夕食までに宿に戻るという生徒と学校との約束だった。あとから考えると、生徒全員が日中自由行動というのは、教師たちにとって大英断だったと思う。何かをやらかすかもしれないと、きっと心配だったに違いないのだが、「ウチの生徒は、そうバカなことはしない」と判断していたのだろう。よく言えば信頼感であり、悪く言えば「ここの生徒は、バカをやるような反抗心や冒険心や無軌道な考えはない小心者だ」と思っていたのだろう。なにはともあれ、生徒の自主性に任せるという教育方針だったから、あの高校にしては悪くない決断だったと思う。天下のクラマエ師が学んだ鹿児島の超進学校は、修学旅行は受験勉強の邪魔ということで廃止されたというから、そこよりはだいぶマシな高校だったなとは思う。それはともかく、いわゆる団体旅行は今のところ高校の修学旅行が生涯最後である。

 1970年の大事件といえば、世間的には大阪万博のほかに、三島由紀夫自決事件があった。11月25日だった。下校直前に誰かがニュースを知り、すぐさま校内に知れ渡った。私にとっては、ニュースのひとつとしての大事件というだけで、思想的な衝撃はなかったのだが、一部の右翼的な生徒はショックを受けたらしい。

 あの事件があってからしばらくのちに、授業以外でもちょっと話をしていた日本史の教師から、高校として衝撃的な事件だったと聞いた。三島が隊長をつとめる楯の会に卒業生がいたというのだ。今、ネットで調べてみれば、私が入学する前年の卒業だから、同じ時代に高校生活を送ったわけではない。警察には、ここは何か特別な思想教育をする高校なのか、あるいはそういう思想の教師がいたのかという疑惑があり、日本史など社会科の教師を中心に警察の聴取を受けたらしい。その人物が高校を卒業してわずか3年後の事件なので、高校時代の教育や行動にのちの事件のヒントがあるかもしれないと警察は考えたようだ。私の感想では、高校や教師に、思想的影響は何もないと思う。

 もうひとつの事件は、やはり晩秋に、静かに始まった。その話は、次回にすることにしよう。