1583話 カラスの十代 その16

 

 昔のことを書いていると、思いだそうとしなくても、過去のいろいろな情景や言葉のやり取りが、どくどくと湧き出して来る。記憶を封印したわけではないが、干からびた地表を押し破り、思い出の地下水が湧き出して来る。

 その編集者と再会したちょっとあとのことだった。夜の新宿の路上で、偶然その編集者と出くわしたことがあった。

 「こんな時間まで、何をしてたの?」と聞くから、「タイ料理を食べていたんだよ」と言った。

 「タイって言っても、どうせようしょくだろ」

 「いや、タイ料理だよ」といったが、話がかみ合わない。「ようしょく」の意味がわからないから聞き返したのだが、彼は「養殖」のことを言い、貧乏な私は天然のタイなんか食えないだろと言いたいらしいとなんとか想像できたのだが、私は「洋食」と聞こえたから、話が通じなかったのだ。その夜、私がタイ料理を食べたのは開店してまだ間もない歌舞伎町のバンタイで、1985年のことだ。私が知る限り、1980年代前半まで、つまり1984年の時点で、日本で営業していたタイ料理店は4軒か5軒しかなかった。だから、普通の日本人には「タイ料理」は鯛料理か、台湾料理の言い間違いと思われるような時代だった。「タイ料理」という文字を見ても、タイという国の料理とはわからなかっただろう。そういう時代だ。

 あのころ、タイ料理のことが書いてある日本語資料は、タイムライフの「世界の料理」シリーズの『太平洋/東南アジア』(1974)くらいしかなく、タイに行ってもタイ料理の資料は英語でもタイ語でも、ほとんどなかった。だから、私も森枝卓士氏も、五里霧中の手探りで、タイの食文化を調べていたのである。そんなことを書いていると、若者に「なぜインターネットを使わなかったんですか?」なんて言われそうだ。それほどの、隔世の感がある。

 そんな時代だったなあと昔を思い出していると、あっ、今、また別のことを思い出した。1970年の高校3年生の時だ。

 高校時代、授業があまりに退屈だと、いろいろな遊びを考えていた。教師のプライドを考えて、堂々と本を読むことはしなかったが、ノートに何かを書くことはしていた。ある日のこと、「もしも、クラスのアイツが本を書いたら」という発想で、新聞1面下の、「さんやつ」(3段8割)とか「さんむつ」(3段6割)と業界で呼ばれる書籍広告を創作したことがある。運動部で活躍しているヤツはスポコン人生相談本とか、日ごろの言動をネタに架空の本を作り上げた。授業が終わって級友に見せたら、ささやかな笑いがあった。その広告を眺めながら、「重版出来」と記入してにこりと笑ったのが、のちに工事現場で会い、そのあと編集者として出会ったヤツだった。出版の話など一度もしたことがなかったが、当時から出版界に関心があったことがよくわかる。「重版出来」(じゅうはんしゅったい)などとすぐさま書ける高校生は、この学校にはそう多くなく、そのシャレがわかる高校生も、そう多くはなかっただろう。私と彼だけの、出版ギャグだ。

 また、思い出した。同級生にボクシングジムに通っているヤツがいて、その発言や行動をヒントに、ふさわしいリングネームをつけ、ボクサーの栄光と挫折の自伝の書籍広告も作ったことがある。現実の彼は、ボクシングに熱中しつつも受験勉強もちゃんとやり、有名大学に入り、大企業のサラリーマンになったものの、早死にした。線香をあげに行ったときの奥さんの話では、徹底的に遊びまくり、愛人を作り、家族を泣かせた人生だったそうだ。奇しくも、私が企画した本とあまり違わない人生だったようだ。