1593話 本で床はまだ抜けないが その1

 

 神保町の古本屋のワゴンセールに『本で床は抜けるのか』(西牟田靖、中公文庫、2018)があった。本の雑誌社から単行本で出た時から気にはなっていたが、不要不急の本だから、「まあ、そのうちに」と思っているうちに時間が流れた。

 著者の蔵書は、2003年ごろまで「500冊にすら満たない状態を維持していたが」、その後、執筆に必要な資料を買うようになり、2004年から「毎年100冊以上本を買うようになった」という文を読んで、正直、「なんだ」と思った。1年に100冊なら、10年で1000冊。1万冊になるのには、100年かかる。著者が2004年から40年間、同じペースで本を買い続けても、4000冊増えるだけだ。「本が多くて、足の踏み場もない。風呂場まで本が・・・」と嘆く人は、数万冊レベルの蔵書だと思うので、数千冊レベルでは「多いなあ」とはあまり思えない。絶対的蔵書数の話ならそうだが、部屋の広さと比べた相対的蔵書数でいえば、1000冊でも「多い」ということになる。つまり、著者の場合、狭すぎる部屋に多すぎる本ということか。なお、「蔵書が多い方が偉い」と思っているわけではないので、誤解のないように。

 住まいに本が多すぎて、生活に支障が出ると、著者は妻に責められる。私が不思議に思ったのは、著者は都心での生活にこだわり、部屋が広く安い埼玉や千葉に引っ越す気がないことだ。もっと稼いで、妻に文句を言われない本の置き場所を確保することもしない。稼ぎが少ないのに、本をどんどん買い込み、狭い部屋に置くという生活に妻が怒り、「本を取るか、家族を取るか」と問われて、「本!」と答えて、それだけが原因かどうかはわからないが、離婚することになった。鹿島茂は『子供より古書が大事と思いたい』という本を書いたが、西牟田氏は「思いたい」ではなく、実際に家族より本を選択したのだ。本は、家族よりも大事か。

 そのことも、わからない。買い集めた本というのが、例えば手塚治虫をはじめトキワ荘時代のマンガの作品コレクションとか、三島由紀夫などの初版本や掲載誌と生原稿といった貴重な資料というならわかるのだが、西牟田氏はそういう資料を買い集めているわけでもなさそうだ。

 ただ、西牟田氏の気持ちを、私もわからないわけではない。資料を手に入れた当人には「貴重品」だと思えても、ほかの人から見ればゴミ同然なのだ。私はタイで出版された印刷物をいくらか持っているが、今タイでこの手の資料を探しても、まず手に入らない。特に雑誌類、自費出版物の入手は難しい。だからと言って、そういう資料を「貴重」だと思っている人は、タイにも多くはないだろう。そう思って、雑誌類数十冊は捨てた。

 高価な本は何冊かはある。「高価」というのは、古本屋の売価のことで、素人が古本屋に売るときの買取価格ではない。

 ここまで書いて、父が残した本の整理をしていたら、戦前期に出版された蒸気機関車の製造カタログが出てきた。クロス装の豪華本だが、痛みが激しい。父は軍隊時代鉄道隊にいた工兵で、戦友には鉄道関係者が多い。父は古本屋で洋書を探す人ではなかったので、たぶん友人にもらったのだろう。1931年出版の”Henschel Locomotives”をインターネットで検索すると、古本屋のサイトにヒットした。売価4万円だ。父の本は傷みが激しいから、買取価格はせいぜい500円くらいか? 今私が持っている本で、「高い」とわかっているのは、編者の冨田先生からいただいた『タイ日大辞典』で、アマゾンで3万9262円から20万円の値段がついている。その昔、1万円近くしていた学術書が今どのくらいの値段がついているか調べてみたら、数千円だ。そういう学術書を利用していた学者が引退し、蔵書が市場に出たのかもしれないが、同時に若い学者はその手の本を買おうと思わないのだろう。ましてや、私のように学者でもない者が学術書に手を出す時代は、とうに終わった。神田神保町のアジア文庫の全盛時代は、1980~90年代だ。高くてカタイ本でもよく売れた時代だった。『タイ日大辞典』の元になった『タイ日辞典』(1987)は編者の冨田竹次郎先生の自費出版で、定価2万9000円の本が「3000円の本と同じくらい売れた」とアジア文庫店主の大野さんは語っていた。1年足らずで完売し、編者で実質上版元の冨田先生のもとに巨額の売上金が入り、税務署の査察が入ったくらいだ。

 これから何回か、本をネタに思いつくままに書いていくことにしよう。