ある人の話では、蔵書数が5000冊を超えると、すでに買った本か、まだ買っていない本かの区別があいまいになり、同じ本をまた買うようになるというのだが、「すでに買ったかどうか」よりも「すでに読んだかどうか」を覚えている方が重要だと思う。
1595話で、1960~70年代の海外旅行ガイドの話をした。書棚から関係書を取り出し、文章を書き、本を書棚に戻していると、「ええ?」と思う本があった。つい先日、『さすらいの青春 四大陸放浪七年』(下柳田龍二、中公新書、1973)を読んだばかりで、この本は以前から知っていて、「鹿児島出身者のような苗字だなあ」などと思いつつ、読もうかどうか考えていて十数年たち、先日アマゾンでまた見かけたので、「そろそろ買ってやるか」と思い、買って読んだばかりなのだが、その本がすでに書棚に入っている。アマゾンの書籍ページで「最後にこの本を購入したのは・・・・」という表示が出なかったので、多分、ずっと前に古本屋で買ったのだろう。読んでも記憶に残る内容ではなかったので、読んだことすら忘れてしまったということだ。こういうのを、「記憶喪失による二重買い」という。こういうのは、もはや常態(デフォルトというのか)である。
「怠惰による二重買い」というのもある。ある本を読みたいと思ったとする。すでに読んだことがあり、ウチのどこかにあることはわかっているが、探すのが面倒で、アマゾンしてしまうという例だ。もちろん、高い本は、そういうことはしない。送料込みで500円程度の本だ。
二重買いはしないが、インターネットに頼るという例もある。
1593話で、『タイ日辞典』の話を書いた。その時、この辞書の発行年を書いておきたかったのだが、記憶がはっきりしない。現物が書棚にあり、取り出せばすぐにわかるのだが、棚の前に本が積んであり、その山をどけるのが面倒くさくて、インターネットで検索した。
(突然、部屋で「ドサッ!」という音がして振り向くと、本の山が崩れていた。『歩きながら考える』(鶴見良行)、『実物大の朝鮮報道50年』(前川惠司)、『台湾物語』(新井一二三)、『人類学者への道』(川田順造)、『くらべる東西』(おかべたか・山出高士)、『オリガ・モリソヴナの反語法』(米原万里)といった本を拾い上げ、形ばかりに山の整地をした)。
さて、パソコンに戻って、文章の続きを。私にとって、インターネット書店というのは、ほぼ毎日接している存在なのだが、まったく縁なく暮らしている人がいるということを、つい最近実感した。ネットと無縁な人がいるということは、もちろん知っている。私自身スマホもタブレットも持っていない。キンドルとも無縁だから、デジタルとの距離は遠いのだが、「それでもなあ」と思った。
友人が、最近関心を持った分野の参考となる本を紹介してくれとメールが来た。私がよく知る分野なので、関連書を5冊紹介した。2週間ほどしてメールが来た。
「でっかい本屋に行っても、5冊とも見つからないんだ。店員の話では、すでに絶版になっているというんだ」
私には、ある本が現在新刊書店で売られているかどうかなどどうでもいいことだ。ある本が新刊書としてまだ流通していても、書店の棚にないことなどごく普通のことなので、実質的には新刊書も、「品切れ、再販未定」と同じことというのが、新刊書も古本も同じように扱っているネット書店をよく使っている私の認識なのだ。
古本屋歩きをしたことがない友人は、「本は新刊書店で買う、店になければ注文して買う」という習慣になっているので、私が紹介した本がすべて手に入らないことに少々怒りを感じたらしい。
アマゾンの「マーケットプレイス」というのは、中古品を扱う部門で、書籍ならネット古書店ということになる。出品者は個人の場合も企業の場合もある。当初疑問だったのは、「売価1円」というもので、これでどうやって利益を得るのか謎だったが、ごく簡単に言えば、設定した「送料」よりも実際には安く送って、差額を利益にするという商法だ。取引数を高くするとか、ほかにも理由があるが、ここでは省略する。
安い売価はわかったのだが、法外に高い値をつける業者の行為がわからない。古書なら、定価450円だった文庫に8000円だろうが5万円だろうが、好きな値段をつければいい。高ければ売れないだけだ。しかしわからないのが、出版後2か月しかたっていない2000円の新刊本に、「4800円」などという値をつける業者だ。現在、アマゾンで2000円で売っているというのに、同じ新刊本を4800円で売ろうとしている業者の意図がわからない。品切れになったら、高くても買う人がいるという思惑にしては、当たる確率が低すぎるように思う。アマゾンでの新刊書が「現在購入できません。入荷待ちです」という状況を待って、その値段が定価であるかのように誤解させて売る商法か? この謎をご存じの方の解説をお願いしたい。