30年近く前の話だ。半年ぶりにタイから日本に戻ったら、面倒な事が起きていた。姉の話によれば、長年空き家になっていた隣家がついに売却することになり、その隣りの住民である我が家に、「買いませんか、安くしますよ」と不動産屋がセールスに来たという。すると、なんと、母が「解体費用分を安くすれば、買う」などと言い出し、不動産屋と値引き交渉を始めたところに、私が帰国したというわけだ。「なぜ、隣りの土地を買おうと思うのか」と母に聞くと、「日当たりが良くなる」という。たしかに、南面の古家が無くなれば、日当たりは良くなるが、そのために大金を払うか? 私が住んでいるあたりの土地は、東京23区と比べれば笑えるほどに安いが、それでも40坪を超える土地だ。「うまい寿司でも食べるか」という値段ではない。
母は、長年貯めたカネを持っているから、買収資金の心配はないし、その土地を買ったからと言って、私になにか迷惑がかかるわけではない。母の真意はわからないが、家庭菜園を作りたかったのか、あるいは、土地はいずれ値上がりするとまだ信じていて、今後何かあれば売って資金にするとでも考えていたのだろうか。
「でも、土地なんかいらないでしょ」といえば、「そこに書庫でも建てればいいじゃない」などという。「書庫なんかいらない」といって、土地買収計画を白紙に戻させた。それから30年近くたっても、土地の値段は昔と変わらない。
本をある程度持っている者の夢は、買った本の背が見えるように棚に並べて置ける家に住むことだ。書棚の本を、前後2段に詰め込むのではなく、1列に並べて、収納する。そういう書棚にあこがれる。フィギアとかミニカーとか、書画骨董のコレクターなら、自宅を美術館のようにリフォームし、収蔵品をガラスケースに入れて展示する(そして、自慢する)のが夢だろうが、本を多く持っている者は、ごく一部の豪華・高価本収集家以外、本を他人に見せびらかす趣味はあまりない(あくまで、「あまりない」です)。コレクターじゃないからだ。立花隆の書斎でもわかるように、実用的な書棚は美しく整っているわけではない。
私も、もちろん、持っている本の背表紙は全部見えるように収納したいという夢はある。本を床に置きたくない。段ボール箱に入れたままにしておきたくない。
書庫は、建て方によって数十万円から1000万円以上の幅があるが、そんなカネがあるなら、旅行に使いたいと思った。本が増えすぎて困ったら、処分すればいいのだ。
土地を買って書庫を建てる計画は、即座に拒否したが、別の書庫計画はある。もちろん、リフォームの空想遊びであって、実現させる気はまったくない。
今、2本の書棚と物置きになっている四畳半の部屋を改装するというプランだ。床を取ると、60センチほど下が地面だ。コンクリートを敷き詰めたベタ基礎ではないから、土を40センチほど掘り下げて、コンクリートの床を張る。天井も取り払って上下の空間を広くして、2段構造の書庫にする
司馬遼太郎記念館の設計は、あの安藤忠雄だから、本をオブジェとして扱っている。使うための書棚ではなく、見せるためだ。記念館の飾り棚だからそれでいいのだろうが、まったく実用的ではない。規模を小さくて、こういう書棚を自宅に作りたがる人がいるが、上の方の本は見えないし、取り出しにくい。蔵書数を自慢するだけの書棚だ。私は使うための書棚を考えたので、上下2段にする構造を考えたのだ。批判を覚悟で言うが、建築家が作った自慢の図書館や書斎なんか、オブジェでしかない。
いくつかの部屋に分散して置いてある本を2段式のその書庫に集めると、棚はすぐさま全部ふさがり、また本が増えるのだ。でも、と、リフォームの夢から覚める。本を処分すれば、無駄な書庫など作らなくて済むのだ。ヤドカリは、家が小さくなると住み替えるのだが、ビンボーライターは、住まいに合わせた蔵書数にとどめておいた方がいい。じゃまなら、処分すればいい。家族を追い出して蔵書を守る人の感情を理解できない。