1616話 本で床はまだ抜けないが その24

神保町でこんな本を見つけた 2

 

 『バンコクの好奇心』を出して間もなくだと思うから、1990年代の初めころだろう。ある台湾研究者が、「『台湾の家庭生活』は知ってます?」と聞いてきた。「いいえ」と答えると、「日常生活の雑学に興味があるなら、あの本、おもしろいですよ。でも、もう手に入らないでしょうがね。戦中の台湾で出た本ですから・・・」

 それから半年もたたないで、神保町の古本屋で見つけた。

 『台湾の家庭生活』(池田敏雄、東都書籍株式会社臺北支店、1944)。終戦のちょうど1年前に、初版3000部が台湾で出版された。街散歩の雑学本だと期待していたのだが、出産や育児や通過儀礼など、民俗学的な内容だった。

 この本の書き込みや付属物で、いろいろなことがわかった。最初の所有者のゴム印がある。

 臺北市外三重埔 臺湾日化工業所 三木信治 19.11.19

 発売から3か月後に買ったとわかるのだが、ページの隅に「臺北・太平町 廣文堂書店」と印刷した紙片が張り付けてある。今でも古本屋で値段を書いて、本の最後のページに張り付けておく商習慣がある。これを価格ラベルというそうだ。戦前期台湾の日本語書店の資料を読んでも、「臺北・太平町 廣文堂書店」は出てこない。小さな古本屋かもしれない。

 「付属物」というのは、本にはさんであった中華民俗学会理事長の婁子匡の手書き原稿だ。いつ挟み込まれたのは不明だが、原稿には「59年9月」とあり、これは民国59年ということだから、西暦1970年だ。日本語がほんの少し入る中国語の文章で、旧知の池田敏雄について書いているらしい。中国語と英語で、奥付けのような紙片が入っていて、編者や出版者の名はあるが肝心の書名がない。この時は、本はまだ台湾にあったのかもしれない。その後、本はどうやって日本に渡ったのか。

 ちなみに、著者池田敏雄に関しては、中国語のウィキペディアにも記事が載っている。

 裏表紙の裏に、もうひとつの価格ラベルが貼ってある。書店は神保町の有名書店である小宮山書店だ。古い書体の書店名だが、郵便番号の局番が4桁だから、それほど古いものではないだろう(1991年以降だ)。その価格ラベルのそばに「1800」と鉛筆で太く書いてある。別の古本屋が書いた価格だ。誰かが小宮山書店で買った本が流れて、私の手に入ったのだが、神保町のどの古本屋で買ったか確かな記憶はない。本の内容を考えると、おそらく古いアジアの本を多く置いている叢文閣書店だろう。

 『台湾の家庭生活』はいままで何回か復刻されているようだが、2002年に大空社から復刻。2003年には『池田敏雄台湾民俗著作集』(松蔭書房)として復刻している。古書市場で5万8000円の値がついていた。

池田敏雄に関しては、ネット上に情報が多くある。そのひとつが、これ。

 「『民俗台湾』にみる日本と台湾の民俗研究 : 調査方法の検討を通じて

 『台湾の家庭生活』を買った数年後、神保町で見つけたのが、『中華萬華鏡』(井上紅梅、うみうし社、1993)だ。この本は戦前に出版された本の復刻なのは明らかだが、どういう本をモトにしているのか、何も書いていない。著者紹介も「詳細不明」、「著作権継承者はご連絡を」と書いてある。この本の内容は、都市生活雑談で、怪しげな内容の文章も多い。最初の話は「猫魚」

 「江南一帯の城市では「売猫魚」(マイモーイウ)と言って、猫の食料を売り歩く者がいる」という書きだしだ。猫の餌になる特別な魚がいるというのだ。怪しげで、おもしろい。

 この本を買ったころは、著者の井上紅梅が何者かさっぱりわからなかったのだが、その後研究が進み、今ではウィキペディアにたっぷりの情報がある。しかし、『中華萬華鏡』に関する情報がない。そこで国会図書館の資料を検索すると、この本の親本がわかった。昭和13(1938)年に改造社から出た本だ。うみうし社は、そうした書誌学的な情報を無視して、勝手に出版したらしい。国会図書館の資料は誰でも自宅で読めるようにデジタル化されている。1938年の「親の顔」を見たくてページをめくると、「あれっ?」と首を傾げた。目次を見ると、コラムの順序がバラバラだ。親本のまま復刻したのではなく、いじっているのだが、そういう説明はうみうし社版には一切ない。

 『中華萬華鏡』を読んだことは覚えているが(「当然覚えている」と書けないのが悲しい)、付箋を貼っている個所を読みなおすと、やはり衣食住の記述に傍線を引き、付箋をつけていた。うみうし社版は、現在電子書籍で読むことができる。

 この本のことを書いていて、戦時中のプノンペン領事館に勤務していた外交官が書いた『カンボジア奇譚』(三宅一郎、作品社、1994)を思い出した。なんとなく似た雰囲気の文章だ。

 おまけの話。「重い本」の項で書いた”Indonesian Heritage”(1998)は、項目別インドネシア事典のようなもので、全10巻。私は、興味のない巻を除いて9冊をジャカルタで買った。知り合いは、シンガポールの書店から通販で買ったという。送料を加えても、私が買った値段よりもちょっと高いくらいだった。そして、早稲田散歩をしていたある日、高田馬場ブックオフに、なんとこの事典が3冊置いてあった。ジャカルタで買うより安く、ひと月後には売れていた。うちの近所のブックオフの棚に、ナイジェリアの作家チヌア・アチェベの”Things Fall Apert”を見つけたときよりも驚いた。