1627話 名前の話 その3

 いままでは、私のよく知らない世界の話を調べつつ書いてきたが、タイ人の名前に関しては、少々知っている。

 タイ人が姓を持つようになるのは1913年の姓名法以降のことだ。つまり、それ以前は姓がなかったのだ。貴族や公務員は役職名や王から与えられた欽定名を使っていたが、姓ではない。資料によれば、自分の姓を決められない人用に、国王が数千の姓リストを作り、その中から選べるようにしたが、同一地域で同じ姓の申請は認めないという規則があったという。タイ人の名前に関する文章には、どれもこういうことが書いてあるのだが、その当時、タイ語が読めない人はいくらでもいたし、パソコンがない時代に、同じ姓があるかどうか、どうやって確認したのだろうといぶかしい。

 それはともかく、現在でも同姓はほぼ一族ということになる。だから、日本の田中や佐藤のように、「どこにでもある、ありふれた姓」というものはタイにはない。

 これには実体験がある。ある日新聞を読んでいたら、ある事件の関係者の姓が知り合いと同じだったので、共通の知人に確認したら、知り合いの兄だった。火事のニュースに、被災者の姓がやはり知り合いのものと同じだったので知り合いに確認すると、「親戚だ」という。

 タイ人の名前について調べていて興味深いことはいろいろあるが、1913年の姓名法は選択的夫婦別姓だったが、1941年に妻は夫の姓を名乗ることになった。2005年以降、再び選択的夫婦別姓に戻った。

 タイ人の名前は、名+姓の順になる。姓が長いのは、貴族など特権階級と中国からの移民に多い。中国移民はタイに同化するためにタイ語の名前を作ったのだが、元の中国語の姓を織り込んだり、「光り輝く」とか「繁栄」とか「躍進する」などのめでたい語を戒名のように付け足していくから、姓がどんどん長くなる。タイ族の農民出身という人なら、シンプルな名前だ。

 こうして、タイ人も姓を持つことになったが、通常、姓は使わない。ある会社の主任に「部下の姓は」と聞いたら、ひとりも知らなかった。書類には姓名がきちんと登録されてはいるが、正式書類以外姓は必要ないし、誰も気に留めない。

 クーデタでタイを追われた元首相の名は、タクシン・チナワットという。姓がチナワットだが、マスコミも「チナワット首相」とは呼ばない。名を使って「タクシン首相」と呼んでいた。現在の首相はプラユット・チャンオチャといい、「プラユット首相」と呼ばれている。英語では姓に敬称をつける決まりになっているのだが、タイの英語新聞では、姓ではなく名に敬称がつく。

 姓が重要視されないということは、スポーツ大会などでタイ人が好成績をあげても、姓だけしか報じないと、それが誰だかわからないということになりかねない。

 実は、日常的には姓を使わないだけではなく、名もあまり使わないのだ。タイ人は生まれると、親や誰かがあだ名(チューレンという)をつける習慣がある。単純で、よくあるあだ名だとムー(ブタ)、ノック(トリ)、デーン(赤)、ウワン(デブ)、レック(チビ)などがあり、西洋かぶれだと、ボビーとかジェーンというのもある。知り合いは母が病院に向かうタクシーの中で生まれそうだったので、「もし、タクシーで生まれていたら、オレのあだ名はタクシーだった」と話していた。彼はタイ人には珍しく、あだ名を持っていなかった。

 というわけで、学校や職場ではこのあだ名を使うので、姓名が登場するのは試験や公文書などだ。