1628話 名前の話 その4

 

 タイ人の名前のローマ字表記というのは、これまたややこしい。『まとわりつくタイの音楽』という本を書こうと思ったときのことだ。当然ながら、多くのタイ人が本に登場するのだが、そのカタカナ表記をどうするかで悩み、自分なりの法則を作った。だから、ローマ字表記も機械的にできるのだが、それは私のやり方でしかない。「タイ語のローマ字表記法」といったような規則はないので、各自バラバラに、好きなようにやる。バラバラといっても、おおまかにふたつの方向があり、ひとつはタイ語の綴りを機械的にローマ字に移し替えていく方法で、もうひとつはアメリカ人が喜びそうな英語風の綴りにする方法だ。タイ在住の西洋人がやりたがる方法で、英語人相手に特化した表記だ。

 タイ語の綴りをできるだけ忠実にローマ字に置き換えようとしたものが過去には多かった。現在はタイ語の綴りは参考にするが、単純化して読みやすくした折衷作が主流だが、今でも「権威」を表したいときは、この方法を用いることがある。タイ語原理主義者といったらいいだろうか。タイ語の発音をローマ字で表記するというものではない。例えていえば、日本語の旧かなづかいをそのままローマ字に置き換えたようなもので、極端に言えば「tehutehu」と書いて、外国人に「蝶々」と読めと迫るようなものだ。

 タイ語のローマ字表記の問題はいくつもあるのだが、ここではひとつだけ書いておく。地名や人名になると、タイ語原理主義者の発言が強くなるのだ。インド起源の「偉そうな単語」がまずい。タイにはナコン・ラーチャシーマーとかナコン・パノムとかナコン・サワンなど、ナコンがつく地名がいくらでもある。ナコンは「街、都」といった意味だが、そのタイ語の綴りをそのままローマ字表記するとnkrだ。母音を省略したサンスクリット語の綴りをそのままタイ文字に移して、「ナコン」と読めというのがタイ語だ。サコンナコーン県を綴りのままローマ字に置き換えると、Sklnkrだ。県名などはありがたい語を使いたがるからこうなる。

 nkrは今では、外国人にわかるように「Nakhon」と母音を補って表記する人が多くなったが、なかには元のタイ語の綴りに忠実にローマ字表記したがる人が学者や役人に多いような気がする。ちなみに、タイ語でnkrと表記するサンスクリット語インドネシアでは母音を補ってnegara(発音はネガラではなく、ヌガラ)になり国家を意味する。東南アジアはインド文化の強い影響を受けてきたという例のひとつだ。

 タイ最大の国際空港は、英語では“Suvarnabhumi Airport”と表記している。こんな綴りの単語はタイ人でも教養がないと多分読めない。タイ語のสุวรรณภูมิというタイ語の綴りをそのままローマ字に置き換えたものだ。分解すると、Suwanna(黄金の)phuum(土地)という意味のサンスクリット語だ。wをvで書きたい人は故老にはいる。タイ語の綴りではphuumiと「i」がついているが、発音しない。それでもローマ文字には書いておきたいという原理主義者的発想だから、ローマ字なのに外国人は読めない綴りにしてしまった。日本語では「スワナプーム」国際空港という。ちなみに、マレーシアの「マレー人優遇政策」(bhumiputra)は、「大地の子」という意味だ。

 前回例に挙げたタクシン元首相の姓はチナワットだが、ローマ字表記ではChinawatra(あるいはShinawatra)だ。タイ語の綴りをそのままローマ字表記すれば、Chinawatrだが、語尾のrは発音しないのに、ローマ字表記では母音を補ってraと表記したがるが、もちろん発音しない。インド渡来のありがたい語だと示したいのだ。

 タイの有名な映画監督に、チャトリーチャルーム・ユコンがいる。姓のローマ字表記をYukolとするから、外国人は「ユコル」と呼びたがるのだが、タイ語では語尾のLやRはNに変わるという法則があるから、発音はユコンになる。しかし、元のタイ語の綴りに忠実であろうとして、こういうことになり、外国人を困らせるのだ。

 そういうややこしい話はともかく、タイ人歌手の名をカタカナで表記していて気がついたのは、日本語がかなりできるタイ人が、同じように日本人の歌手名をタイ文字で書いていくことができるかということだが、それは無理だ。タイ人の名前は基本的に法則通りに発音するから、そのままカタカナに置き換えていけばいいのだが、日本人の名前は、それをどう読むのかは基本的に本人しか知らないのだ。「中谷」が「なかや」か「なかたに」か「なかだに」か、他人にはわからない。極端な例を言えば、「一郎」と書いて「じろう」と呼んでもいいのが日本だから、正しい読み方など他人はわからないのだ。