1630話 名前の話 その6

 

 私の名前は前川健一と書き、「まえかわ けんいち」と読む。難読名ではないし、誰でも当たり前に読める名前だと思っていたが、同姓同名の学者の論文に「前川健一(まえわ けんいち)」とあって、「そうだよなあ」と思い出した。わたしは少年時代奈良県に住んでいて、我が家は近所では「まえがーさん」と呼ばれていた。「まえがーさんちのけんちゃん」が私である。

 名前が濁る・濁らないという例はいくらでもある。山崎が「やまさき」、柳田が「やなぎた」などがある。松田は九州でも「まつだ」が普通のようだが、関西なら「まったさん」と呼ばれることもあるだろうが、公文書に「まった」とフリガナを振る人は多くないかもしれない。堀田は「ほった」と「ほりた」の両方あるなあ。きっと「ほりだ」もあるだろう。

 地名は、なるべく現地の呼び方を尊重するというのが日本の基本姿勢だから、英語圏でVeniceと呼んでいる街をベネチア(Venezia)とイタリア語風に呼んでいる。日本国内でも同じように現地語発音に従うかというと、いろいろ問題がある。大阪の京橋は、アクセントは東京の京橋とは違うが、フリガナを振るならどちらも「きょうばし」だ。日本橋は大阪では「にっぽんばし」、東京では「にほんばし」で、現地の呼び方をそのまま採用している。しかし、これが標準ではない。

 日本人の多くは鹿児島を「かごしま」と呼んでいるが、当の鹿児島県民は「かごんま」(あるいは、かごっま)と呼んでいて、ほとんどの日本人は現地の呼び方を無視している。鹿児島が県内では「かごしま」ではないと初めて知ったのは、与論島に滞在していたときだ。

 宮崎県都城市は市の公式呼称は「みやこのじょう」としているが、現地呼称は「みやこんじょ」に近い音だろう。市内の施設などには「みやこんじょ」という呼称も多い。「沖縄」は地元では「おきなわ」ではなく、「うちなー」と呼ばれている。沖縄方言の母音が、「aiueo」ではなく「aiuiu」だから、音が変わるのだ。

 沖縄県豊見城市は「とみぐすく」(発音により近く表記すれば、とぅみぐしく)だが、豊見城高校は「とみしろ」だ。これは高校野球で全国的に「豊見城」という校名が広まったので、読みやすい「とみしろ」へと改変が起こったらしい。市内の高校と小学校は「とみしろ」、中学校は「とみぐすく」と呼称が違う。東京の阿佐ヶ谷と阿佐谷といった表記の違いや、やはり東京の江古田は、「えた」、「えこ」、「えこた」という呼び方が混在しているというのとは違い、全国的になるために呼び名を簡易化したのだ。

 つい最近、外国人の名前が気になった。テレビで、ハワイ州知事の名を「イゲ」と言っているので、どういう民族的背景がある名前なのか知りたくなった。調べてみると、イゲ知事はDavid Yutaka Igeという日系人で、Igeは「伊芸」で、沖縄にルーツがある姓だ。現在の日本で2000人ほどしかいない珍しい姓だから気になったのではない。アメリカ人はけっして「イゲ」とは発音していないのは明らかだからだ。

 英語の発音サイトで、David Igeを調べると、私には「デービッド・イーゲン」と聞こえる。このサイトでは、同じくハワイ出身の日系人格闘家Dan Igeはなんと「ディア・ナイジェ」と聞こえる。ハワイのテレビ番組では、「イーゲイ知事」と紹介されていて、これは私の想像通りだ。英語人は語尾が「e」で終わる語の発音は”e”にはできないというクセがある。だからkaraokeは「カラオーキ」(アメリカ人なら、桑田佳祐のようにキャラオーキィ)になり、酒は「サキ」になり、神戸は「コービー」になり、枝豆は「エダマーミ」になる。だからIgeもたぶん「イーギー」だろうと想像していたのだが、「イーゲイ」だった。

 日本で「リーガン」と呼ばれていたRonald Wilson Reaganが大統領になって、「現地の発音により近い」という理由で「レーガン」と呼び名が変わった例にならえば、Ige氏は現地の発音通り「イーゲイ知事」とするべきだろう。「Ige」という綴りを重視して、ローマ字読みの「イゲ」が正しいとするなら、バイデン大統領ではなく、ビデン(Biden)でないとおかしい。

 さあ、どうする?

 ややこしくも興味深い「名前の話」は、今回で終了。