1631話 公園にて

 

 ウチのすぐ脇に小さな公園がある。たいていは日曜日の午前中だが、孫を連れたおじいさんの姿を見かけることがある。孫は「きゃーきゃー」言いながら公園を走り回っているが、おじいさんはさして楽しそうでもない。黙ってじっと孫を眺めているだけだ。そういう光景を眺めていて、その20分ほど前の様子が想像できた。

 テレビの前に座り込み、新聞と老眼鏡とお茶をテーブルに置き、朝から時代劇やスポーツ番組を見ているおじいさんに、部屋の掃除やかたずけや洗濯をしたい妻か嫁か娘が、孫を連れてしばらく外に出てくれないかと言われたのだろう。掃除機をかけると、「テレビが聞こえない。うるさい!」などと怒鳴られたら、いつまでたっても掃除ができない。定年退職したじゃまな男を公園に送ったのだろうと、私は想像している。

 ある日。

 3歳児くらいの子が、泣きじゃくっている。「うぇーん」でも「ええーん」でもなく、全身を震わせて「ぎゃーぎゃー!!」と叫んでいる。公園を360度見回しても親の姿が見えず、「どうしたの」と声をかけようかと思ったが、「幼児に不審者が近づく!! 危険」と見られないだろうかとためらいがあり、それでも放っておけないので、「どうしたの?」と声をかけていると、遠くから「すいませ~ん!」と言いながら走ってくる母親の姿が見えた。幼児を置き去りにして、どんな用があったというのだ。

 また、ある日。  やはり3歳くらいの子が公園を走っている。近くに親の姿が見えない。大丈夫かと心配になったが、ちょっと離れたベンチに母がいた。スマホを手にして、顔をあげる素振りはない。

 また、ある日。

 午前中は激しく降っていた雨は午後にはやんで、強い日差しになった。

 きょうは買い物には行けないかと思っていたのだが、雨が上がったから近くのスーパーに買い物に行こう。家を出て、この公園を横切ろうとしたら、水たまりの脇に堂々と座り込んで泥水遊びをしている子供がいた。白いタオル地の服にいくつものシミがついている。私には子供の年齢がよくわからないのだが、2歳か3歳くらいだろう。その子のすぐわきに母親が立って、黙って子供を見つめている。

その母親に声をかけたくなったが、まったく知らない人に話しかけるのはいかにも変かと思うものの、たまらず「洗濯、大変ですね」と声をかけ、母親は苦笑いしながら「ええ」と小さく応えた。

 私はそんなことを言いたかったわけではない。話をしたかったのは、60年以上前の話なのだ。

 たぶん、4歳か5歳くらいだったかもしれない。「ドラえもん」をはじめ、昔のマンガには空き地があり、なぜかそこになぜか土管があったのだが、我が家の前にも置きっぱなしになった土管があった。ほこりをかぶって白くなっている土管に何度も潜り込み、馬に乗った気分で土管にまたがって遊んでいると、近所のおばちゃんが「そんなことしてたら、お母ちゃんにしかられるよ」と言ったのだが、私は「いいんだ」と口答えした。そのやり取りを母は家の中から見ていたのだが、何も言わなかった。

 そのあとの記憶はないのだが、夏の暑い日だったから、すぐさま裸にされて風呂場で全身を洗われ、着替え、服は洗濯したのだろう・・・と思い浮かべていたら、あのころの我が家には洗濯機はなかったことに気がついた。水道もなかった。井戸からたらいに水を汲んで、洗濯板と固形石鹸で、私が汚し放題にした服を洗濯してくれたのだということに気がつき、いま目の前の母子にその思い出話をしたくなったのだが、余計な話だとよくわかっているから話かけはしなかった。ほこりだらけ、泥だらけになっていても、「よしなさい、汚いじゃないの」などとい言わなかった母を思い出した。

 考えてみれば、10代になっても20代になっても、母になにかを「やりなさい」と言われたことはないし、「やめなさい」と注意されたこともない。高校時代の学業成績が超低空飛行している私に、たった一度だけ、「自分で生活できる学力か技術を身に付けなさい。親を当てにしなさんな」と言ったことは覚えている。

 「キャッチャー・イン・ザ・ライ」って、こういうことなのだ。