1633話 滞在許可 その2

 

 1980年にアメリカで取材旅行をしていた。取材だが、当然労働ができるビザなど取らず、観光ビザだった。取材費はまとめて100万円ほどもらっていたから、私の下心は、出版社との約束通り取材をしてアメリカから原稿を送るが、この機会に節約をして、できる限りアメリカで遊んでいようと思っていた。帰りのオープン航空券は持っているから、さっさと取材を済ませ、全財産を使いつくすまで遊んでいようと思った。

 全米をインタビューしていく取材で、会う相手は自分で探し、電話でインタビューの許可を取り、実際に会う日時場所を決めるのも自分で、原稿と写真を日本の週刊誌に送る手順だから、取材を始めてみれば、非力な私には「さっさと仕事を終えて、たっぷり遊ぶ」などという余裕はなく、あたふたしているうちに滞在を許可された90日などたちまち過ぎて、超過滞在者となった。オーバーステイである。だから、できる限り警察の目に入らないように過ごしていた。結果的に5か月ほどの滞在になり、出国時に面倒な事になるかとちょっと心配したが、在米日本人が「なんの問題もないよ」というのを信じて、のんきに遊んでいた。

 それでもやはり、ロサンゼルス空港の出国ブースで起こるかもしれない事態を想像しておびえていたのだが、航空会社のチェックインカウンターのあとは荷物検査があって、そのあとは搭乗口だ。出国検査はないのだ。アメリカ入国は厳しいが、出国する者は「勝手にどうぞ」なのだ。

 

 私は1980年代末から90年代末にかけて、タイに長期滞在をしていた。長期と言っても、秋から翌年の春までの半年ほどの滞在だった。半年と決めていたのは、カネが続かないということもあるが、最大の理由は、好奇心が磨滅してしまわないように、タイと日本を行き来していたのだ。タイに長々といると、日常のすべてが当たり前になって、おもしろさがわからなくなってしまう。『バンコクの好奇心』(めこん)を書いたとき、「ほとんど全部、知っていることばかりだ」といったタイ在住日本人が何人かいたが、バスも水も安宿史も、特におもしろいと感じる感覚がすり減っているから、改めて調べてみようとは思わなかったのだ。そうならないように、私はタイ滞在を半年で切り上げていた。

 1989年当時、タイのビザなし滞在は15日間だった。当然、観光ビザを取った。目黒のタイ大使館に行き、パスポートと写真2枚、タイ出入国航空券とビザ申請書があれば、3000円の手数料で翌日受け取れた。申請と受領の2回、大使館に行かなければいけないのはめんどうだったが、申請そのものに難しいことなど何もなかった。

 航空券は、1年間のオープンチケットというものだ。出発便の予約はしてあるが、帰国便の予約は入れていない航空券だ。だから1週間ほど滞在できる航空券と比べると高く、選択できる航空会社はエジプト航空パキスタン航空の2社にほぼ決まっていた。航空会社のコードMSやPKは今も覚えている。航空券の料金は覚えていないが、『地球の歩き方 タイ』の1989年版によれば、10万円前後だったようだ。

 観光ビザでタイに入国し50日を過ぎると、そろそろビザの延長手続きをしないといけない。観光ビザは、1回に限り、滞在をひと月延長できるが、それ以上の延長はできないから、滞在が90日近くなると1度出国しないといけない。

 当時は、まだラオスカンボジアベトナムへの観光旅行は許可されなかったから、滞在80日を過ぎると、もっとも安い隣国であるマレーシアに行く夜行列車の切符を手に入れることになる。