1644話 料理をすること

 

 姉はもともと料理は好きではなかったが、結婚して夫と3人の子供のために日々料理をしていた。夫は外食が嫌いで、サラリーマンをやめて独立したときも、自宅の近くにオフィスを構え、昼時には帰宅して、妻の手料理を食べていた。休日にゴルフに行っても、食事をせずに帰ってきた。

 時がたち、子供たちが家を出て、5人家族が4人になり、3人になり、新婚時代と同じように夫婦ふたりきりの生活になった。「今までのように、どうしても多く作っちゃうのよね」などと言っていた数年後、夫が突然死して、姉はひとり暮らしになった。そして、ひとり暮らしになると、あまり料理をしなくなった。外食は嫌いだし、出前も嫌い、スーパーのできあいの料理は口に合わない。だから、自分の食事は自分で作るのだが、「食べたいものなんかないから、作る気もしなくて・・」といい、なんとか一汁一菜の食事をしているようだ。「何か、送ろうか?」と言っても、「たぶん食べないからいいよ」という返事しか返ってこない。好きなものは緑茶だけで、昔なら自家製漬け物を食べながらお茶を飲んだのだが、いまはぬか漬けはもちろん、塩漬けさえ作らない。

 姉の生活から思い出したのは、昔のベストセラー『おじいさんの台所』(佐橋慶女、文藝春秋1984)のことだ。著者の母が死に、残された83歳の父を、ひとり暮らしできるように家事全般を鍛え上げる娘の話だ。1日3食自分で作るように、親身の指導をした。

 それから何年かたち、父が死に、夫も亡くなり、著者はひとり暮らしになった。そのころ、新聞か雑誌にエッセイを書いたのを読んだ。実は、そのエッセイの書き手が佐橋氏ではなく、名も知らぬ料理研究家だったかもしれないが、確かめようがないので、記憶のままに書く。

 「父に『料理をしなさい』などと厳しいことを言ったけど、今自分がひとり暮らしになると、料理なんかする気にならない。喜んで食べてくれる人がいないと、料理をしようという気にならない。父にひどいことをしたと思う」といったような内容だった。

 アジア雑語林にこの文章を書こうか考えていた夜、NHKラジオから、平野レミ(自称は、料理愛好家)と、その次男の妻の和田明日香(テレビの料理番組でおなじみ)が出演していた。聞き手は作家の村山由佳(番組名「眠れない貴女へ」)。

 話は、イラストレーターの夫和田誠の話から。和田は妻が作る料理が大好きで、外出しても食事をせずに帰宅したという。いつも「おいしいね、おいしいね」というから、妻は料理の工夫をした。その夫が2019年に亡くなった。嫁の和田明日香が語る。

 「とたんに、お母さん、料理をしなくなっちゃった。仕事なら、作りますよ。でも、自分の食事となったら、クリとかサツマイモとか、そんなものしか食べてないの」

 テレビや雑誌などで大活躍している平野レミでさえ、料理する熱意が消え去ったのだ。

 「作っても、喜んでくれる人がいないと、料理する気にならないの」と母。

 「料理だけじゃなく、部屋のかたずけもまったくやらないの。ゴミ屋敷みたいになって・・・」と嫁。

 「だから、樹里ちゃん(長男の妻、上野樹里)に厳しくしかられるのよ」と母。

 そういう話がしばらく続き、平野レミの独白。

 「もし、生まれ変われるなら、先に死んでやる。大好きな人に死なれてひとりぼっちになった悲しさを、和田さんに味合わせてやりたいの」

 平野レミは生涯、夫を「和田さん」と呼んでいる。