名前だけは昔から目にしているが1冊も読んだことがない多和田葉子の本を読んだ。『言語と歩く日記』(岩波新書、2013)はドイツ語と日本語で本を書く著者の、「ことば日記」だ。
私は、ドイツ語を勉強してみたいと思ったことは一度もない。旅先で耳にしても、魅力はまったく感じない。その私でもわかるようなドイツ語の話が出てくるのだが、ややこしいことが嫌いな私は、「冠詞を廃止せよ。語形変化を無くせ。性差を無くせ」などと叫びたくなる。
ドイツ語の悪口となれば、マーク・トウェインを思い出す。多和田は“The Awful German Language”(Mark Twain)という本の話を少しするのだが、私が覚えているのは、「神が歯痛で苦しんでいた夜に作ったのがドイツ語だ」という一節で、多分『ちょっとおもしろい話』に出ていたように思う。アメリカ人にとっても、ドイツ語の語形変化の嵐は耐えられないものだったのだ。
それはともかく、この新書に貼った付箋は3枚。
1枚目はフランクフルトから東京に向かう機内で耳にした日本語(101ページ)。何を飲みたいか聞かれた乗客が、「オレンジジュースで」と答えたが、その「で」はなんだ?飲み物は要らないという人の、「だいじょうぶです」? 客室乗務員の、「お砂糖をお使いになりますか」。「砂糖は使う物か!」と突っ込む著者。
この3点は、私も気にかかる。とくに「だいじょうぶです」がいやだ。コンビニのレジで、「ポイントカードは?」と聞かれて、「はい、だいじょうぶです」という会話をときどき耳にする。
「砂糖とミルクは?」
「はい、だいじょうぶです」
ああ、いやだ、いやだと、「いやだ」を10回言いたい。
付箋2枚目。著者は2012年の読売文学賞小説部門を『雲をつかむ話』で受賞した(105ページ)。「ほかに受賞者は亀山郁夫、宮下志郎」まではいいのだが、「韓国から来て日本映画を撮るヤン・ヨンヒさん・・・」はまずい。ヤン・ヨンヒは大阪生まれの在日朝鮮人で、2004年に韓国籍となった。ながらくドイツで暮らしている著者がヤン・ヨンヒを知らないのはいたしかたないが、岩波新書の編集者と校閲者が直しておくべきだろう。
3枚目はソビエト船の話(109ページ)。
1979年、早稲田大学文学部露文科の「3年生だった19歳の時」、リュックを背負ってヨーロッパに出かけたというのだが、「 」に入れた箇所が気にかかる。多和田は1960年3月生まれなので、現役で大学に入ったとして、1年生の3月に19歳、2年生の3月に20歳になる。1979年の夏休みにヨーロッパ旅行に出たのなら、19歳のときで、2年生ということになる。ああ、校閲のようなことをやってしまった。私が読んだのは2013年の初版・初刷りだが、その後増刷時に上記ヤン・ヨンヒの件も含めて訂正されたのだろうか。
書きたかったのは年齢ではなく、この時の旅行ルートだ。横浜からソ連船に乗ってナホトカ、シベリア鉄道に「200時間ほど揺られて」モスクワ、そしてさらに鉄道でポーランドや東西ドイツを旅したという。シベリア鉄道経由ヨーロッパの旅は、ハバロフスクから空路を選ぶことが多いのだが、露文科学生だからということか、全線鉄道旅だったらしい。
2013年に日本を訪問した多和田は、初めて日本を出た港を見たくて横浜に来て、昔の旅を思い浮かべていた。
「横浜とナホトカを結ぶ旅客船は1961年に始まり、1992年になくなったそうである」。
1992年に廃止になったのは、その前年にソビエト連邦が崩壊したからだ。
私が初めてソ連船に乗ったのは、1974年の横浜・香港ルートでバイカル号だった。翌75年に横浜・ナホトカルートを使い、ジェルジンスキー号に乗った。そして、78年と82年に香港ルートでソ連船に乗った。航空運賃はだいぶ安くなっていたが、長期の旅や片道利用だと、船と飛行機の料金差はあまりなかった。都合4回、横浜から出航したが、港の深い記憶はない。朝9時乗船、10時出航だったか。かなり早めに港に来ていたので、腹が減って船の昼飯が待ち遠しかったのはよく覚えている。
当時の旅がどのようなものだったかが、例えばこの旅行記で紹介されている。