1650話 深夜放送 その1

 

 団塊世代が高校生になり、受験勉強に手をつける1960年代後半に、ラジオは本格的に深夜放送を始めた。「オールナイトニッポン」(ニッポン放送)や「パックインミュージック」(TBS)の放送が始まるのは1967年で、私は高校生だったが、中学生時代から深夜のラジオ放送を聞いていた記憶がある。番組名をはっきり覚えているのは、「S盤アワー」(文化放送、1952~69)だ。当時の中学生にとって、「深夜1時」というのは常識外の時刻だった。

 60年代末から大人気になっていた深夜放送を、私はあまり好きではなかった。パーソナリティーなる人物が、兄貴となって人生相談にのるという構成や、のちに「ハガキ職人」と呼ばれる若者たちが書いたコントなどで構成する番組が好きになれなかった。しゃべりまくる放送が、読書のじゃまになるからいやだったのだ。だから、ハガキを読まず、おしゃべりは少なく、音楽中心の番組はよく聞いた。レコードを買えない子供は、ラジオから流れる音楽に浸った。

 深夜放送で時々聞いたのは、糸井五郎のオールナイト・ニッポン(1967~81)だ。音楽中心だったからだ。ビルボードがどうしたといったランキング番組にはまったく興味がないが、糸井五郎が送り出す音楽は、ちょっとご機嫌だった。「ちょっと」と限定的になるのは、私はやはりジャズが好きで、だから比較的ジャズが流れるタモリのオールナイト・ニッポン(1976~83)は、時々聞いていた。ジャズが好きなら、ジャズ番組を聞いたほうがいいわけで、油井正一の「アスペクト・イン・ジャズ」(1973~79)はよく聞いていた。スウィング・ジャーナル編集長の児山紀芳の番組はいくつか聞いた記憶があるが、NHKの「ジャズ・トゥナイト」以外思い出せない。FM東京の「渡辺貞夫マイ・ディア・ライフ」(1972~89)もよく聞いた。

 地上波では、大橋巨泉がジャズ番組をやっていた。テレビでも、「11PM」ではときどきジャズの生演奏を放送していたし、それ以前にNHKの「夢で逢いましょう」でも中村八大の演奏を放送していたものの、その手の「ぬるい」ジャズは好きではなかった。しかし、フリージャズはもっと好きではなかった。ネット情報では確認できないのだが、深夜とはいえテレビで、毎週山下洋輔トリオのスタジオ演奏を放送していたのを覚えている。毎週とはいえ、5回くらいの放送ではなかったか。司会は元宝塚の真帆志ぶき。こんな放送をやったのは、「テレビ東京」以前の「東京12チャンネル」かな?

 音楽がほとんど流れなかったのに毎週聞いていたのが、永六輔の「パックインミュージック」(1969~71)だ。このラジオ放送で、ユージン・スミスの肉声を聞き、“stubborn”(頑固)という単語を覚えた。小沢昭一のフリートークも記憶に残っている。

 大学で勉強したいことはなかったし、大学に通える経済的余裕もなかったが、ひとり息子が大学生になるというのが夢だった母親への親孝行で、アルバイトをしながら大学に年通った。そういう大学進学もあるんですよと、若いリスナーに小沢が語ったのを覚えている。

 ネット情報をあたっていると、「永六輔パックインミュージック」最終回の放送(1971年)の45分が、Youtubeにあった。こういう放送が好きだったわけではないが、聞いたことがないという方のために参考まで。