1654話 「旅行人編集長のーと」に触発されて、若者の旅行史を少し その2

1970年前半の船の旅

 

 私が旅を始めた1970年代前半の船事情を書いておこう。

 1971から72年に、前回書名を出した『若い人の海外旅行』を読んで旅行の下調べをしていた。この本には、小山海運の貨物船は安く乗せてくれるという記述がある。30~40日間の東南アジア航海に同乗させてもらう費用は7万円台だという。この船でフィリピンに行ったという人に会ったことがあるが、私が船会社とコンタクトを取ろうとした1972年ごろは、もう貨物船に客は乗せていなかったと思うのだが、確かな記憶がない。というのも、当時もし客を乗せる船会社があったとしても、フィリピンやインドネシアの港を巡るだけでは、満足できないだろう。だから、真剣に船探しをしたかどうかの記憶がないのだ。

 それはともかく、1972年ごろだと、船で東南アジアに行くのはかなり難しくなっていた。韓国はいまでも船で行ける。台湾は沖縄経由で行くことができたのだが、台湾から出る船便が日本行きしかなかったから、船で台湾に行っても、その船で日本に戻るか、台湾から飛行機で出国するしかなかった。台湾・香港の船便をさがしたのだが、見つからなかった。残念ながら、台湾は安い航空券を買うのにあまり適した国ではないので、台湾を出る切符は、日本か香港で買っておくしかない。台湾行の船は那覇経由だから、沖縄在住者はいいが、それ以外の地域に住んでいる者には、那覇まで行く交通費がかかるというのが、この台湾ルートの欠点だ。

 香港に行く安い船は、年に何回かソ連船が出ていた。1970年代なかばごろなら、香港だけを旅するなら往復の航空券を買うのがいちばん安い方法だが、片道切符で日本を出てその後どこかに行くなら、このソ連船の方が安かった。もちろん、ソ連船でナホトカに行くことができた。このコラムの若い読者(まあ、いないだろうが)のために書いておくと、日本はまだ中国と国交を結んでいないので、客船の中国航路はない。

 香港からシンガポール行きの安い船があることを知ったのは、飛行機で香港を出るちょっと前だったから、乗るチャンスはなかった。マレーシアのペナンとインドネシアスマトラのメダンを結ぶ航路はあったが船会社に行くと、「たぶん、明日は出る」という毎日で、しびれを切らして、飛行機を使った。この航路を使ったのは、それから20年以上たってからだ。

 シンガポールからペナンを経由してインドのマドラスに行く航路はあり、1974年に私はペナンからマドラスに向かった。チタンバラン号の航海は、70年代末ころに終わったのではないだろうか。噂では、火災にあって、それっきりだという話だった。飛行機に負けたのだ。

 1964年の海外旅行自由化以前に外国に行きたいと願う貧しい若者が選んだ方法のひとつが、船員になることだった。食文化研究者の石毛直道さん(1937年生まれ)は、商船大学に進んで船員として世界を巡るか、京都大学に進んで考古学の道を歩むか悩み、結局学者の道に進んだのだが、本多勝一が作った京都大学探検部に入ったことで、学者と世界旅行の道の両方の夢がかなった。

 船員になれば、旅費を貯める必要はない。日本政府からの渡航許可を得なくてもいい。豪華客船の船員ならばきっと高給につながるだろうと、「マドロス」にあこがれた若者もいただろう。海外旅行が自由にできるようになると、旅行がしたい貧乏な若者には、一種の伝説が広まった。港に行き、船長と交渉し、船で働くことを条件にタダで船に乗せてもらうというもので、いわば船のヒッチハイクだ。これは単なる夢物語ではなく、「働かないが、格安料金で大西洋航路にのせてもらった」という体験談を、オートバイ旅行者から聞いたことがある。1970年代初めのことだと思うが、大学生がアルバイトで船員になり、貨物船で中国航路にひと月乗務したという体験記が、『旅の技術 アジア篇』(旅の技術編集部編、風涛社、1976)のなかの、「ぼくは上海へ行ってきた」(中村治)だ。

 飛行機の時代になっても、船にこだわった人たちもいた。単純に船が好きだという人以外で、船便を探していたのは、自転車やオートバイや自動車で旅する人たちだ。