1668話 「旅行人編集長のーと」に触発されて、若者の旅行史を少し その16

 1970年

 

 日本人の海外旅行年表というのを作ってある。元はワープロ専用機で作ったもので、単行本1冊分くらいの量があった。その後、パソコンのワードに打ち変えて縮小版にした。

 その1970年の項を見ていて、「おや?」と思った。原稿を書いた私がすっかり忘れていることが書いてある。

 「1970年に日本ユースホステル協会の会員数が、60万人でピークに」と書いてある。念のために調査をすると、「1970年」のことではなく「1970年代」の出来事だとわかる。誤記だった。会員数がピークになったのが何年のことか調べがつかないが、宿泊者数のピークは1973年だった。雑誌「anan」の創刊が1970年で、のちに「アンノン族」と呼ばれる若い女性の旅行者が出現し、旅行者の全体数も増えたのだが、増えた人たちはユースホステルではなく民宿やおしゃれなペンションに泊まったのだろう。しかし、時代はビジネスホテルが各地にできる前だから、女のひとり旅は宿泊を断られないユースホステルが無難だったかもしれない。

 1970年は大阪万博の年で、海外旅行者数は減るだろうと予測されたが、前年の3割増という出国者数だった。万博のために整備した国鉄の体制を、万博終了後も維持しようと考えて生まれた国内旅行のキャンペーンが「ディスカバー・ジャパン」で、これも1970年秋から始まる。国内外ともに、旅行ブームが始まっていた。北海道には、横長リュック(登山家は「キスリング」と呼んだ)を背負った「カニ族」と呼ばれる若者がいた。オートバイでツーリングを楽しむ若者が多くなるのも1970年代で、ライダー用の宿がいくつかできた。

 1970年の旅行に関連する出来事を少し書き出してみる。

・大阪で万国博覧会開催(3~9月)

・外貨持ち出し限度額が700ドルから1000ドルに。

日本航空ボーイング747(通称ジャンボ)が、ホノルル線に初就航。

日本航空の「よど号」が赤軍派にハイジャックされて北朝鮮へ。

羽田空港に、国際線用ターミナル完成。

国鉄が1社提供の番組「遠くに行きたい」(読売テレビ)放送開始。

・下関と韓国の釜山を結ぶ関釜フェリーが戦後初めて就航

・観光目的でも数次旅券が発給される。料金は一次旅券が3000円、数次が6000円。1973年に私はこの数次旅券を取った(大金を支払ったのだから、「買収した」と言いたい)。高校生だった1970年、アルバイトの時給がやっと100円を超えたころで、1日働いて1000円になるかどうかで、その後時給は上がったものの、6000円はとんでもない金額だ。帝国ホテルの宿泊料よりも高いのだ。『値段の明治大正昭和風俗史』(朝日新聞社)によれば、1973年の帝国ホテルのシングルルームは4500円だ。

 1970年の旅行関連年表でもっとも注目したのは、「横浜・ナホトカ航路の利用者が1万7000人を超えて、ピークに。以後減っていく」という記述があるのだが。出典を書いていないので、確認のしようがない。私のミスなのだが、一行の記事にいちいち出典を書いていったら、年表のページが数倍になる。というわけで、この記事は「追い風参考記録」程度だろうが、このころの旅行事情を考えると、「そうかもしれない」とも思う。船の時代から飛行機の時代に変わる潮目だったのかもしれない。