1670話 「旅行人編集長のーと」に触発されて、若者の旅行史を少し その18

 シベリア鉄道林芙美子

 

 戦前期にシベリア鉄道でヨーロッパに向かった有名人は何人もいるが、そのなかでもっとも知られているのは林芙美子だろう。林芙美子関連の本は、旅行記研究のために何冊も読んでいるのだが、棚を探してもすぐには見つからない。そこで、研究者が書いたものを利用させてもらう。

 毎日新聞記者から京都学園大学教授になった福永勝也の論文、「林芙美子のパリ・ロンドン 『放浪記』と彼女をめぐる男たち」の助けを借りる。

この論文を読んで初めて知ったのは、林は金子光晴・森三千代夫婦の旅にあこがれて、夫婦で道中稼ぎながらヨーロッパにたどり着くような旅をしたかったのだが、いろいろあって、ひとりでシベリア鉄道経由の旅となった。

 その部分を引用する。

 

 一九三一(昭和六)年一一月四日,芙美子は東京駅を出発して名古屋と大阪でそれぞれ一泊,さらに門司で二泊した後,九日夜に下関発の関釜連絡船で釜山に渡る。その後,京城奉天長春満州里を経て,二〇日にシベリア鉄道でモスクワに到着している。さらに「退屈極まりない」列車行が続いた後,やっとヨーロッパに入り,ワルシャワ,ベルリン,ケルンを経て一一月二三日午前六時四三分,夢にまで見た「花の都」に到着するのである。

 

 林の概算では、日本からパリにたどり着くまでの諸費用は400円、パリでの生活費は1か月70円と計算し、所持金の1000円では1年暮らせないとわかる。

 戦前期に世界の鉄道旅行をした文豪たちを描いた『文豪たちの大陸横断鉄道』(小島英俊、新潮新書、2008)がおもしろい。出版時に読んでいるのだが、内容をまったく覚えていなかった。林芙美子の本は本棚で見つからなかったが、この選書を見つけたのは幸運だった。林芙美子が使ったルートは1912年に完成したという。1931年の東京からロンドンへの運賃は1等433円、2等は286円で、当時のサラリーマンの年収程度だったらしい。

 この本では「鉄道か船か」という問題を取り上げている。

 1935年当時、横浜―ロンドン間は航路で約40日、ハルピンルートの鉄道で15日間かかった。旅費は鉄道の方が安く、かつ日数的に早いのだが、荷物を抱えての乗り換え、通関の手続きが煩雑、通貨国のビザも必要。通行地域の治安に問題があり、車掌のタカリもあり、問題が多いという。船は時間がかかり鉄道よりも高額だが、日本を出れば、ヨーロッパ到着まで出入国や通関の手続きはなく、船でのんびりできるので、家族向きでもあるようだ。したがって、時間とカネがある者は船を使い、少しでも早くあるいは安くヨーロッパに行きたいか、途中立ち寄る場所に何かの用がある者は鉄道を使うという大筋が見えてくる。林芙美子の場合は、鉄道を使ったのは「できるだけ安く」という目的が大きかっただろうが、旅の途中で見聞きしたことをいつか文章にしようというライターの根性というかサガといったものもあったのかもしれない。

 戦後、シベリア鉄道経由ヨーロッパの旅が再開するのは、1961年に横浜・ナホトカ線の航路ができてからだ。五木寛之がこのルートでヨーロッパに向かったのは、1965年だった。帰国後、モスクワで出会ったジャズ好き少年を描いた『さらばモスクワ愚連隊』を1966年に発表、1967年に『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞、同年「平凡パンチ」での連載をまとめた『青年は荒野をめざす』を出版。五木が作詞しザ・フォーク・クルセイダーズが歌った同名の曲が大ヒットしたのは、1968年だった。

 日本の若者、特に男が「ああ、シベリア鉄道、ヨーロッパ放浪の旅・・・」とあこがれた起因は五木にあるのだが、高校生だった私はアジア志向だったので、五木の影響は受けていない。寒いところは嫌いなのだ。「放浪する私」に陶酔する性癖は、私にはない。